想元紳市ブログ

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中原洲一『父 中原淳一』

戦前から戦後にかけ、画家、イラストレーター、デザイナー、編集者と多方面で活躍した中原淳一。
独特の少女画で一世を風靡し、創刊した『それいゆ』や『ひまわり』などは、後の少女雑誌の原点になったという。

1940年に宝塚の男役スターだった葦原邦子と結婚。もうけた二男二女のうち長男・洲一が、父の知られざる実像、さらに父の最期を看取ったシャンソン歌手・高英男との確執を綴ったのが本書である。

「彼は自分の思い通りに人を愛したのであり、思う通りに人を憎悪したのである」

家族に対する冷淡さ、傲慢で陰気、執念深くて独善的、そして妻どころか女性そのものに蔑視の感情を抱いていたことなど、洲一が、父を形容する言葉は容赦なく厳しい。

淳一の描いた少女たちについても、洲一の分析はずばりと本質をつく。
「彼が描いた少女たちは、性を一切禁じられた者たちである」

しかし息子から父に向けられた、ほとんど憎悪に近い感情の裏側にあるのは、それに比した強い愛情に他ならない。

本書でとりわけ興味を惹かれたのが、淳一の事実上の恋人だった日本初のシャンソン歌手と言われる高英男との関係である。

脳梗塞で倒れ四肢麻痺になった淳一を、高は千葉館山の別荘に引取り、11年間介護した末、1983年にその最期を看取った。

高は、おそらく自分が面倒をみているという自負もあり、あからさまでないにしても排他的とも意地悪ともとれる態度で洲一ら家族に接していたらしい。
ときおり、洲一が父を見舞っても、高はまるで使い走りのように扱い、早く東京に戻るよう促す。
高を選んだのはもちろん淳一の意思でもあったわけだが、家族は二人のやりたいようにやらせるしかなかったというのが事実だったようだ。

劇的なのが、淳一の葬儀の場面である。
高は、火葬後、淳一の遺骨のひとかけらを家族に内緒で盗んできてほしいと、近い人に依頼していたことを洲一は知る。

洲一はそれを内々に受け入れた上で、葬儀では、次のような趣旨の挨拶をしたという。

「父が亡くなったいま、ぼくの身体の中を流れる血以外、生きた父のものは、もはや何も残されていない。もし人がそれを奪おうとするなら、このぼくを殺すしかない」

挨拶を聞いた高は洲一に「立派だったよ」と声をかけた。

「それを聞いて、ぼくが心の中でただ喝采しただけだったか、それとも、『さまあ見ろ』というような言葉を吐いたかは、忘れてしまった」

死後ようやく父を取り戻した、高らかな勝利宣言だったのかもしれない。

その後、洲一は画家として目立った功績も残せぬまま、2004年に60歳の若さで亡くなっている。かたや高英男は、シャンソン歌手の第一人者として長く活躍し、90歳の大往生で2009年に亡くなった。なんとも皮肉めいた後日談。


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