想元紳市ブログ

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トーマス・マン『ヴェニスに死す』

ルキノ・ヴィスコンティの映画『ベニスに死す』を鑑賞したのに合わせ、原作を再読した。

静養のためベニスを訪ねたドイツ人老作家のアシェンバハ。
ホテルで、ポーランド人の美少年タドゥツィオを見出す。
彼の美しさに魅了され、一方的な思慕を募らせるが、街に蔓延したコレラに罹り、恍惚の極致の中で静かな死を向かえる。

初めて読んだのは、おそらく高校生の頃である。
当時の自分が、物語をどのように読みとっていたか。
単に老醜を迎えた作家の、美少年に対する純愛として捉えていただけだと思う。

今回、改めて感じたのは、死の香りが伴う、究極の陶酔である。
死の陶酔とは、官能以外の何物でもない。
アシェンバハにとってのタドゥツィオは、単に同性愛の対象というよりは、尊く、完全な美そのものだ。

「美のみが愛するに足るものであると同時にこの目にはっきりと見えるものなのだ。よく聴くがいい、美こそはわれわれが感覚的に受容れ、感覚的に堪えることのできるたった一つの、精神的なものの形式なのだ」

驚いたのは、ヴィスコンティがいかに原作を忠実に映像化していたか、ということである。
主人公の職業を、マーラー本人を思わせる作曲家に戻したぐらいで、有名なラストシーン、浜辺での少年のあの仕草も、原作にそのまま描写されていた。

「突然、ふと何事かを思い出したように、ふとある衝動を感じたかのように、一方の手を腰に当てて、美しいからだの線をなよやかに崩し、肩ごしに岸辺を振返った」

白塗りの老人や、ホテルのテラスにやって来た流しの大道芸人なども、原作通り。
大道芸人の、不気味で薄気味悪い大笑いの理由が、原作にははっきりと書かれている。

「テラスの人たちに向かって臆面もなく投げつけられる彼の作り笑いの声は嘲笑であった」

彼は、街に疫病が蔓延していることも知らずにのんきに談笑しているホテルの金持ちの客たちを、バカにして笑っていたのだった。

原作から明瞭に浮かび上がってきたのは、なぜ物語の舞台がベニスでなければならなかったか、ということだ。

「この都の腐ったような空気の中で、かつて芸術は放恣なまでに栄え誇り、人の心を軽くゆすって、媚びつつ寝入らせる響きを音楽家にもたらした」

芸術の街として華やかな繁栄を誇った過去から、今や商業的な観光地に成り下がったベニスが、アシェンバハの半生そのものを象徴しているように思える。

さらにベニスと言えば、ゴンドラ。

「この世の中にあるものの中では棺だけがそれに似ている、この異様に黒い不可思議な乗物、ゴンドラは小波の音しか聞こえぬ夜の、静けさの中に行われた犯罪的な冒険を思い起こさせる。いや、それよりもなお死そのものを思わせる」

ベニスに到着したアシェンバハが、リド島に渡るために乗ったゴンドラは、そのまま黒い棺として、まもなく訪れる彼の死の葬送を暗示していたのだった。

 

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