想元紳市ブログ

2017年09月 ≪  12345678910111213141516171819202122232425262728293031 ≫ 2017年11月
TOP ≫ 李碧華『さらば、わが愛 ―覇王別姫―』

李碧華『さらば、わが愛 ―覇王別姫―』

1993年公開の中国映画『さらば、わが愛 ―覇王別姫―』の原作を読んだ。

同じ京劇一座で育った、女形の蝶衣と男役の小楼。
二人の愛憎入り混じる数奇な半生を、日中戦争、毛沢東革命、文革を挟む中国激動の五十年を背景に、さらに京劇の演目『覇王別姫』に重ね合わせて描く。

映画はチェン・カイコー監督の代表作である。
蝶衣を演じた故レスリー・チャンの、魂が乗り移ったかのような迫真の演技で、圧倒的な感動を残した傑作であることは、今更説明するまでもないだろう。

5619547_convert_20160125140628.jpg

映画の脚本も、原作者の李碧華が執筆している。

あとがきで知ったのだが、元々は、1981年に2時間のテレビドラマ用に書かれたシナリオだった。85年に小説化され、92年に改稿されたものが本書であり、映画化作品の原作となった。

改稿は、彼女自身がシナリオを担当した映画『ルージュ』で京劇役者に扮したレスリー・チャンを観て衝撃を受け、着手したものらしい。

つまり、新たに息を吹き込まれた蝶衣には、レスリー自身のイメージがはっきりと投影されているのである。
映画が原作よりずっと色鮮やかで鮮烈なのは、蝶衣とレスリーに纏わるそんな運命的繋がりに、一つの理由があるのだろう。

とはいえ、原作には読み物ゆえの面白さがある。
例えば冒頭の、次のような文章の魅力。

「娼婦に心なく、役者に道義なしと人は言う。娼婦はベッドで情あるふりを装って生計をたてねばならず、役者がふんぞりかえって舞台を歩き回るとき、彼は聖人君子のかがみかもしれない」

「つまるところ、人生は劇にほかならない。(中略)もちろん、わたしたち観客は劇場から出ていくことができる。だが演者にその自由はない。幕が上がれば、初めから終わりまでその役をつとめなくてはならないのだ」

格調高い文章に、見事に物語の主題と結末が予感されているのである。

映画ではラスト、12年ぶりに再会した二人が再び『覇王別姫』を演じ、蝶衣が虞姫のごとく自死を選んだのか、と微かに匂わせて幕は閉じるが、原作は幾分異なる。

まず、決別していた二人が12年ぶりに再会する経緯が描かれる。
小楼は、文革で全てを失い、役者をやめ、香港に一人流れ着いている。
一方の蝶衣はしぶとく役者を続け、香港には一座の巡業でやってくるのだ。
そして、最後の自死は、ただの芝居だったとあっさり暴露される。
「わたしは昔から虞姫になりたかったのだ」と言い、蝶衣は北京に帰っていくのである。

映画は確かにドラマチックだったが、小説の方がはるかに深い示唆に満ちているのは確か。

「憎しみには幾千もの原因があるが、愛はその本質において不合理なのだ」

こうした一文も、現実的な結末だからこそ意味を持ってくる。

 

スポンサーサイト

Comment


Comment Form













非公開コメントにする
Trackback

Trackback URL