想元紳市ブログ

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『或る終焉』

カンヌ映画祭脚本賞を受賞した『或る終焉』。

主人公は、終末患者の在宅ケアを専門とする看護師のデヴィッド。
淡々と手際よく患者の世話をし、ときに最期を看取り、死後処置をする。仕事以外は、ジムで汗を流すか住宅街をジョギング、ときにバーで一杯煽るだけの日常である。

素人目には文句のつけようがない献身ぶりとストイックな生活だが、それでも、何やら違和感が拭えない。少しずつわかってくるのは、デヴィッドの背負う過去と、それに関係する心の闇だ。

デヴィッドは幼い息子を亡くした喪失から離婚し、以来、元妻や娘とは疎遠、ひとり孤独に生きてきた。
どうやら未だ全く立ち直っておらず、現実を直視していない。そのことが、皮肉にも、看護の仕事を容易にしているようにも見える。あるいは、無力のまま、息子を死なせてしまったことに対する贖罪の行為なのかもしれない。

そんな現実感の希薄な献身は、それゆえ、ときにルールやきわどい一線を越えて、患者の家族から誤解されるはめになってしまうこともある。

患者の汚物を躊躇なく処理することができても、ジムで真新しいタオルにスタッフが軽く触れたことさえ許せない。
バーの隣に座った他人に、平気で患者にまつわる嘘をつく。
明らかに、精神的なバランスを失っているのである。

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本作において、もう一つの重要なテーマは、人間の死についてである。

まもなく訪れる死、自ら選ぶ死、唐突に奪われてしまう死、奪う死……。ここには、様々な形の死があり、それらは何らジャッジされることなく、同列で、物語の中に提示される。

我々観客はただ、その傍観者となるだけだ。いかに解釈するか、完全に委ねられたまま。

自分は、不条理や残酷さというより、どういうわけか、ある種の救いを見た。

主人公を演じたティム・ロスの抑えた演技が秀逸。
だが、あえて自分は、死を前にした患者に扮した3人の役者陣の圧巻の演技に心揺さぶられた。

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青山文平『つまをめとらば』

直木賞を受賞した青山文平の短編集『つまをめとらば』。

久しぶりに読んだ時代小説で、6つの短編には好き嫌いがあったが、際立って秀逸だと思ったのは、ラストに置かれた表題作である。

10年ぶりに上野の桜の木の下で再会した、幼馴染の省吾と貞次郎は、ともに隠居の身で同じ歳の56歳。

作事下奉行だった省吾は、3人目の妻とも離縁し、今や覆面の戯作者として身を立てている。
一方の貞次郎は、大奥の広敷添番を務めたあと、独身のまま8年前に養子をとって、今は貸本屋を営みながら算学の研究をしている。

そんな貞次郎が、初婚を考えているという。
妻を迎え入れる準備として、省吾が自宅の敷地に持つ借家に引っ越してくると、二人はかつて感じたことのない穏やかな日常を共有することになる。

「自分がなにを好むかは、ほんとうに好むものと出逢って初めて分かる。省吾も、ほんとうの平穏を知って、それが自分にとってなにより大事と気づいたのだった。そして、その最も大事なものを得るためには貞次郎という相方が要ることにも気づいた」

初老の男二人が送る平穏な生活は、限りなくプラトニックなBLの世界である。

貞次郎の婚約者はなかなか姿を見せず、他方、省吾の家には佐世という一人の女が現れる。

佐世はかつて省吾の家で下女として働いていたが、奉公人と心中事件を起こした、今でいう魔性の女。その後、貞次郎とも心中騒ぎを起こしたという噂を耳にしていたが真相は定かでない。

味噌売りの佐世の来訪は、表立って二人の平穏な暮らしを壊しはしなかったものの、今のままではいけないという思いを二人に生む。

「齢を重ねるにつれ、分かったことが増えたが、分からないことも増えた。分かっていたことが、分からなくなったりする」

そう言って、貞次郎は借家を出て、別の場所で妻をめとる決心をするのである。

もちろん、二人の間にはっきりとした衆道の契りはない。それでも、深いところで互いを必要とし合っている。

「これまで衆道と聞くだけで忌避してきたが、そういう目を持てば、また別の姿も見えるかもしれない」

精神的な繋がりゆえにいっそう、二人のしみじみとした関係が味わい深い。

また、身に起こった厄介をすべて受け止め、事を荒立てず、その毒を創作に見出していく省吾の潔い生き方にも心打たれた。

角達也『男娼の森』

角達也著『男娼の森』は、戦後まもない頃、上野の森に多いときで100名近くいたとされる男娼の実態を綴った小説である。

出版は1949年。つまり、戦後4年目、まさに生々しい実録の小説だということだ。

冒頭から、格調高い文章で、上野の山の物語は始まる。

「世相はめまぐるしく変転をしつづけるが、春になると桜が咲くことには、昔から何のかわりもない。変るものは人間の世相や、人生の味わいばかりだという感慨もよそに、去年の桜が散って、今年の桜が咲く」

主人公は、男娼のお照。
新劇の女形から身を崩し、上野に流れ着くまでの一年半の回想と、やがて上野の山で、姐御的存在になり、その行き末が描かれる。

もしや当事者だったのではないかと思えるほどの、詳細な描写から、リアルな実態がまざまざと浮かび上がってくる。

「商売の呼名もオンナガタと一定した。芝居のおやまと云う言葉は侮辱的なオカマと紛れ易いからだ。仲間の事も、初めは出鱈目に――お姉さん、オネエ、一件仲間、毛知り、おかまやさん、ゴレンサン等――と呼びあっていたが、『御連さん』と定めた」

「御連さん」、今で言う「組合員」である。

彼女らがときに集う鐘山亭という腰掛茶屋は、今も実在する明治8年創業の韻松亭のことだろう。

お照が、レズビアンの男役である娼婦の二河原と同衾し、奇妙な夫婦の関係になっていく後半の展開は、やや強引過ぎるものの、二人の描写には、昭和のエロ・グロ的嗜好が垣間見える。

「お照の女性化した肉肥りな男体と、二河原の牡牛のような男性的で伸暢な四肢との組合せの位置が変るたびに、愛欲心理は苦悶してすすりないた」

角達也は、1918年5月23日、東京生まれ。作家・詩人の菊岡久利に師事し、本作が処女作らしい。同時期、中央公論に『どん底の性欲』という、やはり上野の山のルポを発表しているが、その後の創作の足跡はぷつりと途絶えている。

あとがきで、角の今後の活躍を期待すると記した菊岡との出会いも、3年あまり上野地下道生活をしていた時だったらしい。
男娼でなかったとしても、当時の上野の山は、角にとって庭のような場所だったことは間違いない。

本作、オリジナルはおそらく国会図書館でなければ手にすることは難しいだろうが、『同性愛言説・性教育からみるセクシュアリティ』という研究者向けの専門書シリーズに収録されており、最寄りの図書館に見つかった。

他に収録されているのは、1931年に発売され発禁処分になった流山龍之助著『エロ・グロ男娼日記』と、1958年発行の富田英三著『ゲイ』で、両方とも面白い。エッセイ集である『ゲイ』には、当時のゲイシーンが描かれ、ゲイボーイのケニーらも登場する。

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