想元紳市ブログ

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『愛しのグランマ』

日本未公開だった『愛しのグランマ』をDVDにて鑑賞した。

主人公は、かつて著名な詩人として名をはせたレズビアンのエル。
38年連れ添った恋人ヴァイオレットを1年半前に亡くし、その後4か月つきあった年の離れた恋人オリヴィアとも破局したばかりだ。

そんなエルのところに、ある朝突然、孫娘セージが訪ねてくる。
母に内緒で、中絶するためのお金を借りるためだった。
しかも病院の予約は、その日の夕方……。
手持ちの現金のないエルは、費用を工面するため、セージを助手席に乗せて車を走らせる。

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このエル、相当短気で、明らかに性格が悪い。
二言目には嫌みを放ち、人前でも平気で悪態をつく。
オリヴィアと別れるとき、ヴァイオレットとの38年に比べれば、4か月なんてただの脚注程度の付け足しだ、とまで言い放ち、酷く傷つけてしまうのである。

当然、エルは行く先々でも喧嘩し、なかなかお金を工面できない。
仕方なく、疎遠になっている娘のジュディに対面せざるを得なくなる。

ところが、一夜の男との間にもうけた娘ジュディも、エルに輪をかけて怒りっぽく口の悪い女だった。
つまり、エルとジュディの母娘は驚くほど似た者同士なのである。

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なんとか無事セージの中絶手術を終えてから終盤が、実はこの映画の、味わい深い見どころだ。

ジュディとセージを先に帰し、故障した車を修理に出してから、一人タクシーに乗って帰路につくエル。

車の修理工の男から、迎えに来てくれる人はいないのかと問われたことで、エルは改めて今の孤独を思い知る。
おそらく、未だ消えないヴァイオレットを亡くした喪失感、そして口汚く追い出してしまったオリヴィアのこと……。
また、娘や孫娘とのつかの間のふれあいが、今さらながら、おのれの刺々しい言動や心の闇を浮かび上がらせる結果に。
そしてついに、エルは勇気を出して、ある行動に出るのである。

エルを演じ、実生活でもレズビアンであるリリー・トムリンの、なんとも味のある演技は、文句のつけようがない。
これだけの大女優でありながら、映画の主役をはるのは、なんとベッド・ミドラーとWキャストで笑わせた『ビッグビジネス』以来だというから驚く。
本作で、ゴールデングローブ賞にはノミネートされたようだが、間違いなくアカデミー主演女優賞級の出来だと思う。

セージやヴァイオレットを演じた女優陣、さらにエルの昔の男を演じたサム・エリオットらも、みな好演。
また、娘ジュディを演じたマーシャ・ゲイ・ハーデンのさすがの芸達者ぶりにも心酔した。

 
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『プルートで朝食を』

近々『リリーのすべて』を観るつもりなのだが、性同一性障害の男性を描いた映画で自分が好きなのは、ニール・ジョーダン監督の『プルートで朝食を』。

不幸な生い立ちから、様々な困難に直面しながらも、コミカルに軽やかに生きる主人公は、性同一性障害という後ろ向きの言葉でなく、単にトランスジェンダーと呼んだ方がふさわしいかもしれない。

舞台は60年代から70年代にかけてのアイルランドとイギリス。
教会の玄関に捨てられ、養母に育てられたパトリックは幼少から女の子の格好をし、女の子のようにふるまうのが好きだった。

実は、父親は神父で、母親は彼の元で働いていた家政婦だったという事実は、映画が始まればすぐわかることである。
パトリックはそのことをすんなり受け入れる。
やがて成長したパトリックは、自らをキトゥンと名乗り、ミッツィー・ゲイナーに似ていたという美しい母を探すためロンドンに向かう。

物語は全部で36ものチャプターに分かれ、多くの人物が入れ替わり立ち代わり、キトゥンの前に現れては去っていく。
出会いと別れを繰り返しながら、キトゥンはそれぞれに難ありの彼ら全員をあるがまま受け入れる。誰一人として拒絶することはない。
それは、不器用で、口調はいつもささやくように弱々しく、なよなよしたキトゥンの、真の強さに他にならない。

キトゥンは母のことを「ファントム・レディ(幻の女)」と呼ぶ。
なぜそんなふうに呼ぶのかと聞かれて、こう答える。

「私の人生は物語だと思えるように。でないと、涙が止まらなくなるから」

キトゥンは、ただ心が広く、楽観的なわけではない。
母を探すという行為は、生きるため、自分自身を探す旅だ。
男に生まれながら女になりたいと欲する、己のアイデンティティーを確認する行為だとも言える。
その証拠に、終盤、ある少年に名前を聞かれて、キトゥンは自らを「ファントム・レディ」だと名乗るのである。

キトゥンの生き方が堂々と輝いて見えるのは、彼の四人の幼馴染が、あまり幸せとは言えない半生を送ることにもよる。
不慮の事故死をするダウン症のローレンス、過激派テロ組織IRAにのめり込むアーウィン、私生児をもうけたことで親から勘当されるチャーリー。

キトゥンの出会う人物の中では、場末のマジシャン、バーティが実にしみじみと味わい深い。
二人が、テムズ川河口にある美しい桟橋サウスエンド・ピアでデートするセンチメンタルな場面。
キトゥンが自分は男だと告白すると、バーティは前から知っていたことだ、と優しく受け流す。

バーティを演じたスティーブン・レイは、同じジョーダン監督の『クライング・ゲーム』でも好きになった女が男だったというテロリストを演じており、明らかにオマージュ的なシーンだ。

物語を饒舌に彩る70年代のラブソングを中心にした音楽の選曲が秀逸で、まさにニール・ジョーダンらしい独特の世界観を奏でている。

キトゥンは、物語が進むにつれてどんどん美しくなっていく。
それは、単に容姿だけの問題でなく、内面が鮮やかに変貌していくからだ。
愛らしく、ときに儚げに演じ切ったキリアン・マーフィーが、切ないほどに魅力的。

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松田幸緒『中庭に面した席』

昨年のオール読物新人賞受賞作を読んだ。

老いと孤独の恐怖を、美容院に行くという、たった一日の日常の中に綴った本作。
著者の略歴を見ると、1954年生まれとあるから、すでに還暦を過ぎた女性である。

「中庭に面した席」とは、表参道にある美容室の決まった席のこと。
20年来の顧客である主人公・時子が、行くと必ず案内されて座る、お気に入りの特等席だ。
長年担当してくれているトップスタイリスト、気の付くアシスタント、決まったルーティン、あれこれ構ってもらう特別なひととき。
ところが、三ヶ月ぶりに足を運んだある日、慣れない新しいスタッフによって別の席に案内されてしまう。
心の中で苛立ち、帰宅してからもあれこれ思い悩む一日の話だ。

と言っても、別に大それた不手際や間違いがあったわけではない。
たかが、いつもと席が違った、新しいアシスタントの段取りが前とは違うといっただけのこと。
なのに、腹の中で毒づく時子が、ずいぶん意地悪な老女にも思えてくるのだが、本当の訳は後でわかる。
ラストに驚くべき事実が判明する。

時子は、閑静な郊外にある分譲地の一軒家に住んでいる。
登場する時子の家族は四人。
長男の悦夫夫婦、孫の耕太郎、大阪に嫁いだ長女の早苗。 
夫はずいぶん前に亡くなっている。

言ってみれば、絵に描いたような、ありふれてはいるがそこそこ幸せそうな家族の形。
ましてや、時子は気楽な隠居の身。
わざわざ表参道の高級美容院に通うところなど、ずいぶん優雅な老女だと言える。
ところが、そうしたものが、「すでに失われている」としたら……。

「すでに失くしていたものをもう一度、今度こそ完全に失うのだ」

「何も期待なんてしなければ、もう失うものはない。そう思っていたのに、まだ、失うものはあった」

「いつも、こうして突然、何かがなくなってみて、いままで気づきもしなかった小さな幸せが終わってしまったことがわかる」

テーマは喪失。

「中庭に面した席」も、実は、主人公がかつて慣れ親しんだ、それなのに失われたものの象徴だったことを、後で思い知らされるのである。


『トム・アット・ザ・ファーム』

複数の知人が薦めていた『トム・アット・ザ・ファーム』を鑑賞した。
監督・脚本・主演は、まだ弱冠23歳の新鋭グザヴィエ・ドラン。

舞台になるのはカナダのケベック州にある雄大な農耕地帯である。
だが、その言葉からイメージする、豊潤でのどかな雰囲気はこれっぽっちもなく、ただひたすらじっとりと薄暗く、不穏な空気が辺り一面に立ち込めた田舎だ。

そこへ、大都市モントリオールから、一人の青年トムがやってくる。
事故死した同性の恋人ギヨームの葬儀に参列するためだった。
初めて訪ねた実家に住んでいるのは、酪農とトウモロコシ畑を営むギヨームの兄フランシスと老母アガットの二人。

周囲と孤立し、野蛮で暴力的なフランシスは、ギヨームの恋人は女性だったと信じ込んでいる母のために、徹底して事実を隠し演技するようトムを脅迫する。

トムはむろん、激しい抵抗と憤りに震えながらも、一方でフランシスの危険な魅力の虜になっていく。

フランシスには、明らかにマザコンの気があり、しかもバイセクシャルだと推測される。
男に惹かれる本性を頑なに拒絶し、その反動が過激な形で表面化しているように見える。
トムに特別な感情を覚えてはいるが、暴力をふるったり、首を絞めたり、軟禁したりといった形でしか表現する術を知らない。
また、弟がゲイだったという事実を執拗に隠蔽しようとする行為も、自らの性癖を覆い隠すことの裏返しに他ならない。

加害者に対し被害者側が恋愛感情を持ってしまうというストックホルム症候群がテーマの一つであることは、ドラン自身も言及しているが、伝わってくるのは、傷ついた人間同士の歪だが熱いふれあいである。

拒絶し血を流しながらも離れられない二人の姿は、単なるホモセクシャルな関係というより、それぞれ己の中の欠落と喪失を埋める何かを探し求める欲望のぶつかり合いだと見るべきなのかもしれない。

倉庫で二人がタンゴを踊る官能的なシーンは、自身もゲイであるドランの、いかにもゲイらしい見せ場のひとつだ。

また牛の出産を手伝い、血だらけになったトムの腕をフランシスが洗ってやるシーン。
普段は野蛮なフランシスが、さりげない一瞬に垣間見せる優しさが、この上なく抗い難い魅力に変わる。

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ドランを一躍有名にした前作『わたしはロランス』は個人的にあまり好みではなかったのだが、本作はサスペンスの中に織り込まれた二人の濃密な関係に最後まで引き込まれた。

はっきりと表面化せず、微かに匂い立つだけのホモセクシャルな香りが、だからこそなんともいえず官能的である。

余談だが、ラスト、トムが車でモントリオールに戻るエンドロールは、香港のゲイシネマ『藍宇~情熱の嵐~』のそれにそっくりだと思った。

 
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