想元紳市ブログ

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『バベル』

A・G・イニャリトゥ監督の『バベル』を久しぶりに観た。
2006年の映画だが、何度観ても、胸が締め付けられるような感動はいささかも色褪せることがない。

大きく分けて三つの物語が並行して進む。

モロッコ。
放牧民一家の幼い兄弟。
父のライフルで遊んでいるうち、弟の撃った弾がたまたま眼下を通りががった観光バスに的中してしまう。
バスに乗り合わせ、運悪く銃弾を受けたのがアメリカ人女性のスーザン。夫のリチャードと夫婦関係を修復するための旅の途中だった。

東京。
母の自殺以後、互いにわだかまりを抱えて生きている父と女子高生の娘、千恵子。
千恵子は聾唖者で、父だけでなく周囲との疎外感に人一倍苦しんでいる。

アメリカ。
二人の子供のベビーシッターをしているメキシコ人の中年女性。
子供たちの両親が約束の日に帰宅できなくなったことから、止む無く二人を伴い、息子の結婚式に出席するため国境を越える。式を終えた帰路、命がけのトラブルに巻き込まれる。

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遠く離れた場所の三つの物語を繋ぐのは、一個の銃である。
構成は複雑だが、決して難解というわけではない。

本作のテーマを一言で述べるとするならば、「言葉が通じない恐怖」だ。

現に、モロッコでは英語とアラビア語、アメリカとメキシコでは英語とスペイン語、東京では聾唖者と健常者という言語の違いが、さまざまな摩擦と苛立ちを生む。

だが、ここでいう「言葉」とは、文字通りの意味だけではない。
心が通い合わない、気持ちが伝わらない恐怖だ。
登場する人物の誰一人として悪意はなく、むしろ善人たちである。
だからこそ、彼らが否応なく背負う苦悩は、見ていて辛い。

そして、もう一つのキーワードが親と子である。

東京の父と娘、そしてモロッコの父と幼い兄弟。
息子の結婚式に出たかったという気持ちが悲劇を巻き起こすメキシコ人の女。
さらにリチャードとスーザンの不仲の原因には、どうやら死んだ三人目の子供のことが深く関係しているらしい。

映画のラストの添えられた、監督による献辞は、この流れを受けるものだろう。

「わが子供たち
マリアとエリセオに
最も暗い夜の
最も輝ける光」

三つの物語のうちでは、東京が一番切ない。
坂本龍一の美しいピアノ曲『美貌の青空』が流れる東京の冷たい夜景。
役所広司、二階堂智、そして世界中で絶賛された菊地凛子の演技が素晴らしい。

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『キャロル』

今年の賞レースを賑わしている話題作『キャロル』を劇場で観てきた。

監督はゲイのトッド・ヘインズ。
主人公キャロルにケイト・ブランシェット、相手役テレーズにルーニー・マーラ。
原作はパトリシア・ハイスミスのベストセラーだ。

舞台は1950年代初頭のニューヨーク。
高級百貨店で働いていたテレーズは、ある日、買物にやってきた裕福で神々しいほどに美しい婦人キャロルと出会う。
二人はすぐに惹かれ合い、忘れ物の手袋を届けたことをきっかけに、互いの家を訪ね合う間柄になる。
やがて二人きりの旅先で、ついに関係を持つに至るが、もちろん、このまますんなりハッピーエンドになるはずがない。

当時、同性愛は完全なタブー。
ましてや、キャロルは、別居中とはいえ、上流階級の人妻で幼い娘までいる。

復縁を望む夫の汚い策略で、テレーズとの関係がばれると、不道徳な母親だとして、娘の親権を奪われそうになってしまう。

一方のテレーズは、恋人と形ばかりの同棲をしているものの、明らかに性的には奥手で、自我も未発達に見える。
カメラマンになるのが夢だが、すべてに受け身で、自ら積極的な行動をとろうともしない。

二人がどのような結末を迎えるのかは、あえてここでは触れないでおくが、例えどちらに転んでいたとしても、遅かれ早かれ関係は破綻する運命にあると自分には思える。

キャロルがテレーズのことを本当の意味で愛していたとは思えない。
裕福なだけで満たされない境遇に対する反発に過ぎず、抑圧された想いや欲望のはけ口としてテレーズを欲しただけではないか。

一方のテレーズの想いも、うぶな少女の恋心に近い。自分を見失った初恋状態だ。
そして、ほとんどの初恋がそうであるように、多分に自己愛の裏返しである。

こんな二人が仮に恋人同士になったとしても、決して幸せにはなれない。

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それにしても、キャロルになりきったケイト・ブランシェットは、全く隙の無い完璧な美しさを持つ。
1ミリもずれがないメイク、完璧な角度でウェーブを形づくるヘアスタイル、気品ある着こなしに至るまで、究極のエレガンスを追求した結果出来上がった、まるで人工の造形物のようだ。
言うまでもなく、意図して突き詰めた女性らしさは、限りなく女装するゲイのそれに近づいていく。
それは、他でもないヘインズ監督が望んだものだったにちがいない。
なぜなら、キャロルはもはやヘインズ自身の化身だからだ。

キャロルをとらえるカメラの後ろで、内心うっとりと陶酔しているヘインズの姿が見える。

その意味で、美人だが元々男性的な骨格を持ったブランシェットはまさに適役だった。
現にヘインズは、前作の『アイム・ノット・ゼア』では、ブランシェットに男装させている。

『エデンより彼方に』のジュリアン・ムーア、『ミルドレッド・ピアース』のケイト・ウィンスレットしかり、20世紀前半、50年代までのアメリカ、女性が最も女性らしさを露呈した時代に対する憧憬が、監督の深層心理にあることはほとんど間違いない。

結果、その時代の保守的な社会から逸脱していく女性の自立を描きながらも、一方で、自立とは真逆の、女らしさを誇る女になる願望をまるで自慰のごとく主人公に投影してしまうところに、彼の映画の独自性があるように思う。