想元紳市ブログ

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福島次郎『華燭』

2000年前後に発表された中編二編を収録。
共に主人公は福島次郎を彷彿とさせる、熊本に住む同性愛者の高校教師だ。

表題作『華燭』の主人公・司は、近所に住む男四人兄弟の長男、三男の両方と性的関係を持ってきた。
家族ぐるみのつきあいをし、今や三男の結婚式には仲人として出席するほどの間柄である。
当然、両親は司の本性を知らない。

司が、欲望のおもむくまま少年愛を貫く身勝手さは、正直、ゲイから見てすら嫌悪感を覚えさせる。
救いようのない自己のエゴを曝け出すところに、この小説の力があることは確かだが、終盤、司はさらなる欲望を露見させる。
三男の結婚式を終え、司の自宅で内輪の披露宴が行われる。
泥酔して眠り込んだ兄弟の父親・邦雄だけが、仕方なく家にとり残される。
邦雄の武骨な寝姿に、司はなんと欲情を覚えるのだ。

『ランニングシャツとステテコになった邦雄のシャツごしの盛り上がった胸の形も、太い青筋の張った漁師並みの腕と毛蟹のような手の甲も、スポーツで鍛え上げたものとは一寸違う、肉体だけで暮らしてゆくことの長い闘いを重ねてきた男の強さも悲しみも、秋灯の下に露呈されている感じで――司のものが、われにあらず勃起していた』

いっそのこと、邦男に手を出してみようかと思い悩む司の姿に、あっぱれとも言える業の深さを見た。

もう一篇『霜月紅』の主人公は、高校教師を定年退職した66歳の南。
若い頃、臨時教師として赴任した東北の高校。
創立記念の式典に招待され、44年の時を経て再訪する。
南の心を占めているのは、一度だけ関係し、一方的な想いをつのらせたかつての教え子との再会だ。

ところが、今やひ孫までいる彼は残酷なほどに変貌してしまっている。
その姿に失望しながらも、南はこう思うのである。
自分の若い頃の過ちが、彼のその後の人生に影を落とし、これほどまでにむごい老け方をさせてしまったのではないか……。
なんというエゴと自己愛。

教え子の他にも、当時世話になった旅館の主人、一方的に自分に好意を寄せ続けた女教師の心のうちに触れ、司は人間の内なる闇を垣間見る。

『剣と寒紅』に関するトラブルにより、福島は文壇から距離を置かざるを得なかったはずだ。
それがなければ、おそらく三度目の芥川賞候補になっていたのではないか、とも思える濃密な物語である。



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『愛と憎しみの伝説』

原題は”Mommie Dearest”、「親愛なるお母さま」。

ハリウッド往年の大女優ジョーン・クロフォードの半生を、養女クリスティーナの視線で描いた同名実話小説の映画化である。

といっても、二人の心温まる親子関係を描くのではなく、クロフォードの常軌を逸した裏の顔と、幼児虐待を暴露したものだ。
クロフォードが死去した際、遺言により、遺産相続からクリスティーナを除外したことへの仕返しだと言われている。

劇中、キャリアのピークを過ぎ、ヒット作に恵まれなくなった落ち目のクロフォードが、MGMから専属契約を打ち切られるシーンがある。

「私に回ってくるのは、ひどい監督と脚本の映画ばかりだからだ」と社長に食ってかかるのだが、図らずも、この映画がまさにその通りの出来になってしまった。

1981年に公開されるや、年間ワースト映画の主要五部門独占と、不名誉な称号を与えられ、日本でも長らくDVDにすらなっていなかった。

実際、監督の演出と脚本のまずさは救い難く、全編にまるでテレビ映画のようなチープさが漂う。
結局、クロフォードを肯定的に描くのか、否定的に描くのか、全く方向性を定め得なかった監督の責任につきると、自分は思う。

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しかし、あらゆる駄作には二種類あって、これは、愛すべき駄作だと断言する。
とりわけゲイ的には、実に突っ込みどころ満載で、最後まで飽きることなく鑑賞できるはずだ。

何と言っても、クロフォードをすさまじい怪演で演じきったフェイ・ダナウェイ。
特に、顔をコールドクリームで白く塗りたくったまま、ドレスを針金のハンガーにかけたと言って怒り狂うシーンは必見。
ほとんどコメディーとも、ホラーともとれる演出からわかるのは、おそらく監督が、クロフォードの代表作の一つである『何がジェーンに起こったか』のオカルト風味を意図したとも思えるが、ただ一人フェイ・ダナウェイの過剰な演技だけが空回りする結果となった。

それ以外にも、華やかなシーンでの、グラマラスな衣装やメイク、ヘアスタイル、立ち振る舞いなど、ある意味ドラァグクィーンのお手本になるゴージャスさである。

クロフォードに最後まで付き添った秘書の女性が、クリスティーナに言う言葉。

「彼女は、このようにしか生きられない人なの」

この言葉こそ、クロフォードを描く物語の核にこそなり得たキーワードだと思うのだが、残念ながら、ひたすら迷走するばかりで終わってしまった。

そして、演じた当時は飛ぶ鳥を落とす勢いだったフェイ・ダナウェイも、本作の失敗で、女優生命を絶たれたかのように、その後低迷する。

クロフォードになりきったダナウェイとクロフォード本人の奇妙な一致に注目して観るのもおすすめだ。

勝目梓『小説家』

バイオレンス・官能小説の大家、勝目梓が70歳を越えて初めて発表した自伝的小説である。
生い立ちに始まり、通俗小説の流行作家として成功するまで。
主人公に「彼」と三人称を用いたことで、単に過去を振り返るというだけでなく、少し距離を置いた場所から自らを冷静に、客観的に見つめ直そうという強い意志が際立つ。

柱は二本ある。
ひとつは、奔放な女性関係。
妻と幼い娘を熊本に残し、愛人と事実上の駆け落ち。やがて糟糠のその愛人も捨て、東京で出会った新たな女性と再婚、娘を二人もうけてのち、再び離婚。
その経緯を、赤裸々に告白する。

もう一つは彼の文学的軌跡。
とりわけ、愛人と上京してから、さまざまな仕事をしながら小説家として一本立ちしようと励む若き日々は読み応えがあった。
二人の大作家、中上健次と森敦との出会い。
彼らの圧倒的な才能に直面して挫折し、純文学を捨てるに至る苦悩。その後、娯楽小説家に転身する葛藤を、彼は振り返って、否定的には捉えていない。

「娘たちがこうむるであろう肩身の狭い思いや恥ずかしさに対しては、彼は理解を持ちながらも、妥協して自分の考えを曲げる心算はないのだった。彼は娘たちの体面を保つために、本名を伏せてペンネームを用いようなどとは、一度も思わなかった」

明治や昭和の文豪にたびたび見られる破滅的な生き方は、まさに生来の小説家としか言いようがない。

「彼は何かをぶち壊したくなっていたのだ。壊すべきものもはっきりとわかっていた。まず、小説を書いていく上での足枷と思える家族との関わりから逃げ出したかった。(中略)
 そうすることが、ブンガクに立ち向かう自分の精神を強靭なものに鍛え上げてくれるのであるし、苦悩こそが自分のブンガクを深化させるドリルのようなものになるはずだ」

人間の情念をえぐりたいという彼の作家的指針は、ジャンルが変わろうと決して失われることがなかった。

続編にあたる『老醜の記』という自伝小説もある。
主人公、還暦から73歳まで。娘よりも若い一人の女性との恋愛が描かれる。
その銀座のホステスとの関係は、小説の終わりでもまだ継続していて、その後どうなったのか、知りたくてたまらなくなる。