想元紳市ブログ

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『グッド・ウィル・ハンティング/旅立ち』

ロビン・ウィリアムズを追悼し放送された『グッド・ウィル・ハンティング/旅立ち』を久しぶりに観た。

米映画界を代表するコメディー俳優が自死したというニュースには、少なからずショックを受けた。
重い鬱病に苦しんでいたというが、そのことに関しては、あまり意外な気はしない。

彼はおそらく、相当に不器用な役者だったのではないかと思う。
例えば、ロバート・デ・ニーロのように、変幻自在に様々なキャラクターを演じ分ける俳優とは違い、自分自身に直結し、共感できる役柄しか演じることができなかった。
饒舌で、人を笑わせ希望や夢を与える、しかし、その裏側には深い孤独や哀しみを抱えた善人。
演じた人物全員が、多かれ少なかれロビン・ウィリアムズ本人に重なって見える。

人は誰しも、自らの表と裏のギャップに苦しむものだが、彼の場合、華やかな世界ゆえに、ふたつの乖離はずっと大きかったはずだ。

訃報を伝えるある記事で、長年の友人がこう回想しているのを読んだ。

「彼は三人でいると、底抜けにおしゃべりで楽しい男だが、二人きりになると、まるで狭いエレベーター内に赤の他人と居合わせたような居心地の悪さを感じさせる男だった」

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自分は、特に『レナードの朝』と『フィッシャー・キング』が好きだが、アカデミー助演男優賞を受賞したこの『グッド・ウィル・ハンティング/旅立ち』を代表作に挙げる人も多いだろう。

天才的な頭脳を持ちながら、生い立ちにトラウマを抱え、肉代労働に甘んじている青年ウィルと、彼のセラピーを行うことになった心理学者ショーン。

ショーンも、妻の死の喪失からまだ立ち直っていないという設定で、ウィルの成長と同時に、ショーン自身が前に踏み出す決心を描いている点に、この映画の肝がある。

ウィルは最初、ショーンを拒絶し、いかにも天才の理論で言い負かそうとする。
そんなウィルに、書物で得る知識よりずっと大事なものがあることを教えていく、ショーンの言葉の数々がいい。

「君は不完全だ。彼女も完璧なんかじゃない。大事なのはお互いの存在価値だ。それが愛情の全てだよ。こればかりは実践しか方法がない。私にも教えられないし、たとえ知ってても教えやしない」

描かれるのはウィルとショーン、二人の関係だけではない。

ウィルと親友の関係、さらに、ウィルの才能を発見し、開花させようとするランボー教授とショーンの関係も。
二人は学生時代の同級生で、ランボーが研究者として名声を得た一方、ショーンはパッとしない心理学者に終わり、勝者と敗者として、長年の確執を抱えてきたという間柄である。
しかし、ウィルを立ち直らせることができるのはショーンしかいない、と考えたのはランボーである。

内面に苦悩を抱えた、まれにみる天才というのは、アメリカ映画が好んで描くキャラクターで、別に珍しくもないテーマだ。
それにも関わらず、繊細で温かな感動を持ち得たのは、ガス・ヴァン・サント監督の手腕に負うところが大きいと自分は思う。

 



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山内マリコ『ここは退屈迎えに来て』

山内マリコのデビュー短編集『ここは退屈迎えに来て』。

「地方都市に生まれた女の子たちが、ため息と希望を落とした8つの物語」と帯にある。

「ここ」とは、文字通り「地方都市、田舎」のことであるが、単なる場所ではない。
「鬱屈とした今の私」であることは読み進めていくと次第にわかってくる。

主人公は、とある田舎町に住む、普通の女の子たちだ。
対極として東京や大阪など都会があり、それぞれの夢と現実、挫折が綴られる。

本書を読んで、自分は林真理子の小説を思い出した。
ただ、林の描く女の子たちが持つ毒や野心はここでは希薄で、みな、どこまでも凡庸。
妄想するばかりでたいして思いきった行動を起こそうともしない。

「知り合いだらけの小さな町で育った彼女には、東京の匿名性がことのほか気持ちいい」という一文があるのだが、読後に感じるのは、むしろ田舎と登場人物たちの匿名性の方だ。

8編は、同じ一つの田舎を舞台とし、人物関係も微妙にオーバーラップするが、はたして、それが具体的にどこの田舎で、どのような時間関係なのかは曖昧なまま。
一読した限り、異なる8篇の主人公の誰もが同一人物のように感じられるのは、匿名性に起因する、あまりの平凡さゆえである。
あるいは、おそらく全員が露骨に山内マリコなのだろうと思う。

ただ一人だけ、全ての短編に顔を出すのが、椎名という少年。
バトンのように、8つの物語を繋いでいくが、かといって、椎名の人物像もそのことで多面的に浮き上がるわけでもない。

山内マリコと言えば、知る人ぞ知る映画通。
彼女のブログ”The World of Maricofff”は以前、何度かのぞいたことがあった。
昭和の日本映画、とりわけ女優に対する偏愛ぶり満載のブログで、その嗜好は、ここでもあちらこちらに顔を出す。

最初の短編『私たちがすごかった栄光の話』の冒頭では、主人公が映画『ティファニーで朝食を』のラストシーンをこう語る。

「ヒロインのホリー・ゴライトリーは、実は最悪の田舎から脱走してきた南部出身の女の子だけど、都会で幸せを見つけてめだたしめでたしというわけ。大団円を盛り上げる名曲『ムーンリバー』に煽られて、うっかり感動しそうになるけれど、ちょっと待てよと思う。なんか釈然としない。あんなの全然ぐっとこない。だって田舎町を抜け出したものの私は、何者にもなれず幸せも見つけられないまま、また元の田舎町に戻って、とうとう三十歳になってしまったんだから」

まさに、本短編集を貫くテーマを象徴しており、1ページめを飾るにふさわしい。

8編の中には、ゲイが登場するものもあるが、山内マリコは実にゲイ的な感性を持ち合わせていると思う。
昭和の大女優に対する偏愛ぶりもそうだが、例えば、『アメリカ人とリセエンヌ』における主人公が、もし自分がハリウッドの大スターだったら、と延々と妄想する中身などは、完全にゲイのそれと同じである。


『ラウンド・ミッドナイト』

主な舞台はパリ、1959年。
大御所サックス・プレイヤーのデイル・ターナーと、デイルの音楽に心酔し、崇拝する一人のフランス人男性フランシスの友情が物語の柱である。

デイルは老いてなお巨匠ジャズマンとして、今はパリに長期滞在し、連夜『ブルーノート』で演奏している。
アル中で、NYを追われたのも、酒によるトラブルと、どうやらドラッグも関係しているらしい。
フランシスや彼の家族と触れ合う中で、ようやくNYに戻る決心をするのだが……。

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デイルのモデルは、ジャス・ピアニストのバド・パウエル。
フランシスも実在の人物だという。

ジャズの世界観と見事に調和した映像や編集は見事という他ない。

ストーリーそのものは、断片的で省略も多く、わかりやすい喜怒哀楽に繋がる展開があるわけでもない。
しかし、「スタイルというのは、よその木から摘み取れない。木は自分の中で自然に育つものだ」というデイルの言葉通り、この映画の中に本物のスタイルを、自分は見た。

名だたる著名ジャズマンが、実際に数々のライブ演奏を繰り広げる。
映画の半分を占めるそれらシーンを観るだけでも随分豊かな気分になる。

デイルを演じたデクスター・ゴードンは、演奏は言うまでもなく、役者としても圧巻の存在感を放ち、彼なくしてこの映画は成り立たないと思えるほど。

滞在するホテルの隣人が、内緒で酒を飲んでは行方をくらますデイルのことを指してこう言う。

「毎晩が探究の連続なら、最も美しいものさえ苦痛を伴う」

しかし、それはデイルのようなアーティストだけに当てはまることではない。
成熟した大人なら誰もが知る、生きることの困難が、物語の根底を流れるテーマだ。

フランシスすら、妻シルヴィーに逃げられ、デザイナーの仕事は安定せず、娘との生活は決して楽ではない。
わずかな出番ながら、家を出たシルヴィーの抱える苦悩も、妙に心にひっかかる。
フランシスとシルヴィーの関係は、最後までかみ合わないまま映画は終わる。
二人は憎みあっているとは到底思えず、むしろ心の底ではまだ愛し合っているのではないか、とさえ感じさせる。

ちなみに、シルヴィーを演じたフランス人女優のクリスティーヌ・パスカルは、本作の10年後、42歳の若さで自死している。
無関係だとは思いつつ、なんだか役柄と重なって見えてしまう。

そんな暗い大人たちの狭間で、幼い一人娘が、荒野に咲いた一輪の花のような可憐さで、ささやかな安らぎを感じさせた。

フランシスを演じたフランソワ・クリュゼといえば、同じく男二人の友情を描いた『最強のふたり』が記憶に新しいが、同じテーマでも、自分ははるかにこちらの方が好きである。