想元紳市ブログ

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『チョコレートドーナツ』

本ブログで取り上げる映画や本は、自分が気に入ったものに限ってきた。
しかし、やはりきちんと明確にしておきたい、それが大事だと思える、文字通り問題作を先月を観た。
『チョコレートドーナツ』である。

単館上映で始まったものが話題を呼び、今や全国規模でロングラン中だ。
そして、ほとんどが大絶賛の嵐、周囲のゲイの間でも「号泣した」「今年ベスト1」「絶対見逃してはいけない」と騒々しいほどである。

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物語の舞台は1970年代末のLA。
ドラァグクィーンのルディは、同じアパートに住むダウン症の少年マルコが、母親から虐待されているのを苦にしていた。
ある日、その母がドラッグで逮捕されて、マルコは施設に引き取られる。
逃げてきたマルコを保護しているうちに情がわいたルディは、交際相手の弁護士ポールと共に、里子として引き取るための裁判を起こす。
が、結局、ゲイバーに連れ歩いていたことがばれたりしたこともあり、不適格の審判を受ける。
やがて、マルコは預けられた保護施設を逃げ出し、放浪しているうちに野垂れ死にしてしまう。 
というのがおおすじである。

そして、これが最も気にかかる点なのだが、「実話である」という大仰な宣伝文句のもと、観客の同情と涙を誘っているのだ。

自分も観ている間は、涙の一粒もこぼれそうになった。
が、観終わってよくよく考えるにつれ、違和感が膨らんでくる。
はたしてどこまでが実話なのか。
公式サイトや映画ライターによる記事を読んでも、そのことについては、おそらく意図的に触れられていない。

そこで、本国アメリカのサイトを調べると、幾つかの良識あるサイトでは「ゆるく実話に基づいた」と書いてあった。
どうやら事実は、脚本を書いたGeorge Arthur Bloom 本人が昔ブルックリンに住んでいた時、ルディという男が近くにいて、母がドラッグ中毒の障害があった子供の面倒を時々見ていた、ということだけらしいのだ。

ゲイカップルがダウン症の子を里子にするため裁判を起こしたとか、その子供が無慈悲な判決のせいで亡くなったとか、そんな事実は一切なく、全てが創作。
ポールという人物すら架空だとはっきり書いてあった。

はたして、これで実話だと言えるだろうか。
そして、実話という額縁を取り去ったとしても、人は皆同じように感動するのだろうか?
ゲイの某映画ライターなど、「70年代にゲイ・ペアレンツ! こんなことがあったってこと自体がビックリ」と大真面目に語っているのだから呆れる。

そう考えると、自分には、この映画が偽善としか思えない。
特に作り手のモラルを疑うのは、もっともらしい美談に作り上げ、ゲイの二人を正当化するために、子供を最後死なせてしまうという点である。
この手の物語で、それが許されるのは事実である場合のみだ。

そもそも、物語では実に単純に善と悪が色分けされている。
ルディとポールは善で、裁判官や検事、マルコの母親らは悪である。
人間の本質とは、決して明確に白黒つけられるものではない。それができるのは、ドタバタコメディーや娯楽エンターティメント、子供向けアニメの世界だけだ。

マルコはもしかして専門的な保護施設で育てられた方が、将来を考えれば幸せかもしれない、という考え方だってある、と思うのが分別ある大人である。
そんな良識や熟考すら皆無の、ルディは言う。

「マルコは母親がジャンキーで、おまけに生まれながら障害を背負っているなんて、こんな不幸な子供はいない」

だから、自分が育てるのがベストだ、と。

このセリフこそ、まさにこの映画の偽善そのものを象徴していると自分は思う。

映画は最後、マルコが死んだという小さな新聞記事を、ポールが裁判官らに郵便で送りつけ、判決の誤りを責めて終わるが、それはただの自己満足だ。

ちなみにモデルとなったルディ=Rudy Marinello という男は、脚本家が知り合った数年後の80年代に既に亡くなっているそうである。

 

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『ブルージャスミン』

ケイト・ブランシェットがあらゆる主演女優賞を総なめした『ブルージャスミン』。

テネシー・ウィリアムズの『欲望のいう名の電車』を現代のサンフランシスコに置き換えた、ウディ・アレン版だ。

ニューヨークから妹のジンジャーを頼ってサンフランシスコにやってきたジャスミン。
夫が詐欺師だったことが判明し、裕福なセレブの生活が一転。自己破産して何もかも失い、ほとんどホームレス同然となった。
というのに、飛行機はファーストクラス、シャネルのジャケットとヴィトンのラゲージというのも異常だが、そんなことより、かなり精神を病んでいる。酒と抗鬱剤が手放せない。

里子同士で血のつながらない妹は、野蛮で単細胞の男と婚約中で、ジャスミンはそんな彼らを負け組と罵り、ことごとく軋轢を起こす。
パーティーで出会った外交官の男には嘘をついて婚約まで至るも直前にバレて破談。
そうすると、いよいよジャスミンの精神は異常をきたす。

ニューヨークでの華やかな過去と、サンフランシスコでの狂った現在を交互に描いて物語は進むが、その両極端を見事に演じきったケイト・ブランシェットはさすが文句のつけようがない。

虚言とまやかし、堕落に彩られたジャスミンだが、観ていてなぜか全く嫌いになれないのは、ケイトの人間味露わな熱演と同時に、ウディ・アレンの注ぐ温かい眼差しゆえである。

自らが作り出した虚飾と精神衰弱で疲れ切ったジャスミンは、ある意味、ウディ・アレンの分身だとも言えないだろうか。
それだけでなく、欠点だらけで、時に救いようのない選択をしてしまう、不器用な現代人を象徴しているとも見え、ジャスミンはそんな我々を代表して、見事なまでに堕ちていくのである。

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『ブルージャスミン』のブルーは『ブルームーン』というスタンダードナンバーから。
ジャスミンは、ことあるごとに夫と出会ったときに流れていた曲が『ブルームーン』だったという話を周囲に吹聴する。
それは、おそらくジャスミンが最も幸せだった瞬間であり、もはや決して取り戻すことのできない過去であるからこそ愛おしく、ひたすら崩壊し狂っていく人生の中で、それだけが唯一、心のうちに宝石のように輝いて残っていくのだろう。

『欲望という名の電車』では、最後、精神病院に連れられていくブランチを、それでも我々は愛するように、このジャスミンも、全く同じ意味で愛さずにはいられないのである。