想元紳市ブログ

2014年04月 ≪  12345678910111213141516171819202122232425262728293031 ≫ 2014年06月
TOP ≫ ARCHIVE ≫ 2014年05月
ARCHIVE ≫ 2014年05月
      

≪ 前月 |  2014年05月  | 翌月 ≫

『オープニング・ナイト』

亡くなって25年になるジョン・カサヴェテス監督の秀作の一つ『オープニング・ナイト』。
もちろん、主演は妻のジーナ・ローランズ。
押しも押されぬ大女優・マートルを演じる。

opening-night-1977-002-gena-rowlands-lipstick_convert_20160121220751.jpg

若さと老いがテーマの新作舞台『第二の女』。
ブロードウェイでの開幕に向け、主演女優のマートルが異様なまでに役作りに没頭していくプロセスを描く。

地方でのトライアル上演の終演後、楽屋口にやってきた熱狂的な女性ファンが、目の前で交通事故死する。
以来、その女性の幻影を見るようになり、狂気じみた行動に及ぶマートル。
果たして本当に精神に破綻をきたしたのか。
それは、映画のラスト、ついにブロードウェイで開幕した芝居で明らかになる。

マートルを中心に、いかに一本の芝居が、幾多の葛藤や対立などを経て完成していくものなのか、厳しいバックステージを覗き見る映画でもある。

とりわけ素晴らしいのが、女性ファンが事故死してしまうまでの冒頭10分だ。
逆に、映画の四分の一近くを占める劇中劇『第二の女』が意味不明でつまらなく、長時間見せられるのは少々苦痛。

本作を語る上で、ぜひとも触れておかねばならない映画が二作ある。
ペドロ・アルモドバル監督の『オール・アバウト・マイ・マザー』とナタリー・ポートマン主演の『ブラックスワン』。

『ブラックスワン』については、描かれるテーマは全くと言っていいほど酷似しており、製作者の頭に明らかに本作があったことは間違いない。

『オール・アバウト・マイ・マザー』ではもっと明白で、本作のオマージュとなるシーンが挿入されている上、アルモドバル自身もこう語っている。

「ぼくはやはり女優たちを描いた映画にとりわけ心を動かされる。『オール・アバウト・マイ・マザー』の最後に付した献辞では、とくに大きな感動をぼくに与えてくれた三人の女優の名前をあげた。『オープニング・ナイト』のジーナ・ローランズ、『イヴの総て』のベティ・デイビス、『大切なのは愛すること』のロミー・シュナイダーだ」

女優を演じた女優ジーナ・ローランズの迫真の演技が素晴らしいことは言うまでもない。
また、老女流作家・サラを演じたジョーン・ブロンデルのグラマラスな存在感もゲイ的には注目に値する。

そして、もう一人、奇妙な違和感を拭えない存在が、端役であるはずの、演出家の妻・ドロシーだ。
その不可思議な実体のなさは、もしやこの女も実際には存在しておらず、演出家の幻影ではないか、と想定してみるのも面白いと思うのだがどうだろう。


スポンサーサイト

白石一文『私という運命について』

大企業の総合職として働く冬木亜紀の29歳から40歳までの10年間を描いた長編である。

この年代の女性にとって切実なテーマである恋愛、結婚、仕事、出産……。
それぞれをどのように考え、受け止め、乗り越えていくか。
恋人・康との関係を柱に、背景にはこの作家らしく、「運命」という言葉に象徴されるスピリチュアルな精神が滔々と流れている。

29歳の時、亜紀は康からのプロポーズを断る。
すると一度会っただけの康の母、佐智子から「あなたはどうして間違ってしまったのですか?」という真摯な手紙が届くのだ。

「選べなかった未来、選ばなかった未来はどこにもないのです。未来など何一つ決まってはいません。しかし、だからこそ、私たち女性にとって一つ一つの選択が運命なのです」

亜紀が、佐智子の言葉の意味を真に理解するのは、何年も後のことである。

十年の物語は四章から構成され、各章、違う人物の書いた手紙が、繰り返し同じテーマを語る。
佐智子からの手紙、義妹の手紙、女友達の手紙、康の手紙……。
手紙だけではない。亜紀と関わる人々が、なぜか神の啓示のように、同じテーマを繰り返すのだ。

「人は、決定し、選択することでしか生きられないし、そこに初めて自分という人間のフォルムが生まれる」

「人と人とのあいだには、きっと取り返しのつかないことばかり起きるけれど、それを取り返そうとするのは無理なのだから、取り返そうなんてしない方がいいんだと私は思います。大切なのは、その悲しい出来事を乗り越えて、そんな出来事なんかよりもっともっと大きな運命みたいなものを受け入れることなんだと思います」

「人間は、愛する人の人生に寄り添うことはできても、その人のいのちに介入することはできないのです」

「運命というのは、たとえ瞬時に察知したとしても受け入れるだけでは足りず、めぐり合ったそれを我が手に掴み取り、必死の思いで守り通してこそ初めて自らのものになる」

長い年月をかけて、やっと自分の心で理解し、受け止めることができた亜紀に、ラスト、運命から素晴らしいギフトが届く。
その鮮烈なまでの感動に、思わず涙した。



『西鶴一代女』

見逃していた溝口健二監督の代表作の一つ『西鶴一代女』をやっと鑑賞。

文字通り、江戸時代前期に書かれた井原西鶴の『好色一代女』が原作である。

男と権力に弄ばれて、天国と地獄の間を何度も行き来するような、破天の人生を歩む女、お春。
御所勤めの女官という名誉ある華やかな娘時代から、街娼に堕ちた老年まで、田中絹代が凛として演じきった。

複数の男たちに翻弄されるお春。
美し過ぎることが男を惑わすという設定から、今風に言うと「魔性の女」「男好きする女」といったイメージを持ちかねないが、明らかに違う。
時は封建時代、女であるお春に選択の余地はなく、ただ男と権力の言いなりになるしか生きられない時代なのだ。

その凛々しさは、ひたすら自分の運命を受け入れ、それでも顔を上げて生き続けていく強さから立ちのぼってくるものである。

田中絹代という、文句なしの大女優でありながら、絶世の美女というよりは、むしろ庶民的な容姿をもった女優をキャスティングしたことが、結果として主人公に厚みを付与したと思う。

saikaku_convert_20160121223557.jpg

物語は、今や老いた街娼と堕ちたお春が、たまたま迷いこんだお寺で五百羅漢を眺めているうちに、過去関わった男たちを思い出していくという展開で始まる。
終盤またそこに戻ってラストへと続くのだが、ここでの田中絹代の気迫湛えた表情、思わず崩れ落ちるときの手足の動きなど必見。

溝口といえば、長回しのカメラワーク、妥協のない美学に裏付けられたセットや台詞など、この映画では全てがうまく噛み合い、眩いばかりに素晴らしい。
当時の日本映画の持っていた豊穣さが、隅々にまで行きわたった上質さにもため息が出る。

特に二条城で撮影された、成長し殿様となったわが子の後をお春がひたすら追い続けるシーンは美しく、感動的だ。

ラスト、托鉢をしながら巡礼に旅立つお春の姿からは、神々しささえ感じられた。

 

『8月の家族たち』

重く入り組んだ家族の姿を描いた舞台劇の映画化である。
正直言って、ここまで救われない、後味の悪い物語もなかなかないと思うが、何やらずしりと心に響くものがあるのは、確かだ。

august-osage-county-poster_convert_20160121203529.jpg

オクラホマ州の片田舎。
突然父が失踪したことを受けて、三姉妹がそれぞれの夫や恋人を伴い、母の住む一軒家に集う。

物語の背景に一貫して流れるテーマは、母自身が言う「女は老いるにつれ、どんどん醜くなっていく」ということだ。

病を患っているだけでなく、薬物依存症で頻繁に正気を失い、支離滅裂な毒舌を吐きまくる母バイオレット。
夫の浮気で別居中の長女バーバラ。
一人両親の世話をしてきた地味な次女アイヴィーは、密かにいとこと恋愛中。
バツ3のどうしようもない男と婚約中の少々いかれた三女カレン。
近所に住む叔父夫婦とその一人息子。
長女バーバラの夫と反抗期の娘。

登場する家族は以上である。

演じるのは、母メリル・ストリープ、長女ジュリア・ロバーツを柱に、サム・シェパード、クリス・クーパー、ジュリエット・ルイス、ユアン・マクレガー他、全員が名優、演技派ぞろいのオールスターキャスト。

そんな彼らが、一癖も二癖もある、例外なく深い闇と秘密を抱えた大人たちを演じて対峙する応酬は、やはり圧巻の見応えだ。
さすがこれだけのキャスト、それぞれの役にきちんと見せ場が用意してある。

文句なしに素晴らしかったのがジュリア・ロバーツ。
メリル・ストリープはさすが強烈な存在感だが、正直、最近の彼女につきまとう、あざとさが鼻につく。
叔母を演じた名バイプレーヤーのマーゴ・マーティンデイルが、実に味わい深く、本作のキャスト上もストーリー上もカギを握る女であることは終盤判明する。

物語が進むにつれ、様々な秘密が明かされ、それなりの和解へと収束していくのかと思いきや、全くそうはならない。
各々の苦悩が炙り出されて、バラバラに放り出されたまま、唐突に終わってしまうのである。

一人荒野に佇む長女バーバラの顔に、かすかな解放感が見てとれなくもないが、観客に心地よさをもたらすほどのものでもない。

それよりも、もしかして仄かな温かさを感じさせる人物がいるとしたら、たった一人家族以外の登場人物、家政婦の女。
ネイティブ・アメリカンで、必要なこと以外話さず、ただ控えめに裏側からじっと家族を観察しているのが彼女である。

自分は成瀬巳喜男の『流れる』で田中絹代が演じた女中をふいに思い出した。

結局、人の人生は全く思い通りにはならず、汚いものや痛みをそのまま抱えて生きていくほかないのでは……。
そんなことを思いながらエンドロールを追った。

 


『普通の人々』

テレビで放送されていた『普通の人々』を十数年ぶりに観た。

最初に観たのは日本公開時の1981年。
ずしりと重いテーマを当時の年齢で深く理解していたとは到底思えないが、ただならぬショックを受けたことだけは今も覚えている。
想像の中で美化されていた「愛」というのものが、いかに壊れやすく、人知を越えたものであるかということに愕然としたのだった。

ordinarypeople_convert_20160121204901.jpg

シカゴ郊外に住む、典型的なWASPの弁護士一家。
半年前に長男が水難事故死してから、残された父、母、次男それぞれが心の闇を露呈し、すれ違い、関係は脆くも崩壊していく。

事故で自分だけ助かった次男は罪悪感から心を病んでいる。自殺未遂まで起こした末、病院をやっと退院してきたばかりだ。
最も深い傷を負っているのは長男を溺愛していた母である。
次男ももちろん愛してはいるが、それを表現する術を完全に損失してしまっている。せっかく助かった命を軽々しく自ら絶とうとしたことも許せない。
そんな二人の間でおろおろする、優しすぎる父。

ティモシー・ハットン、メアリー・タイラー・ムーア、ドナルド・サザーランドの屈指の演技で、個々の弱さと闇が見事に炙り出されていく。
とりわけムーアの演技は、壮絶ですさまじいほど。

前年に『クレイマー・クレイマー』が、その翌年に本作が、異なった角度から家族の崩壊を描いてアカデミー作品賞を連続受賞。
70年前後からこの頃までが、実はアメリカ映画の最も円熟していた時期ではなかったか、とも思う。

初監督とは思えないロバート・レッドフォードの抑えた演出も見事だ。

初めて観たときは、まだ恋愛など、映画や本の世界でしか知らなかったし、彼らの真の苦悩も、結局は他人事に過ぎなかった。
それから30年以上たった今……。
その間、恋愛や失恋を繰り返し、様々な挫折を重ねながら年を経てきた中で、この映画で描かれた、愛の不確かさや虚無を、身をもって体験していくことになろうとは、当時全く想像すらしていなかった。