想元紳市ブログ

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『クロワッサンで朝食を』

80歳を超えたジャンヌ・モローが、大女優の貫禄で魅せたフランス映画『クロワッサンで朝食を』。

主な登場人物は三人。

パリに暮らすエストニア出身の富豪の老婦人、フリーダ。
家政婦として雇われてきたエストニア人の中年女性、アンヌ。
雇ったのは、フリーダの歳の離れた元愛人、ステファン。

フリーダは随分昔に夫に先立たれてから、ステファンはじめ幾つかの奔放な恋の遍歴を重ねてきたが、今は孤独で引きこもりの生活。辛辣で意地悪で、仲間もおらず、家政婦の成り手もいない。

アンヌは介護してきたアルツハイマーの母が亡くなったばかり。12年前に離婚した夫は未だに酒浸りのろくでなし、二人の子供もすでに自立して冷たい。

そんな二人が、次第に心を寄せ合っていくプロセスが、物語の柱だ。

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テーマは人生の終盤に直面、あるいは差し掛かりつつある、大人の孤独。

老いや家族の喪失など具体的なわかりやすい孤独というよりも、長い間生きてきた中で、知らず知らずのうちに蓄積した、行き場のない深い孤独である。

フリーダとアンヌが互いを理解し合うようになるのは、言葉にしない心のうちのそんな孤独に共感し合うからだ。

そもそも、物語の説明描写は大胆なまでに削除されている。

アンヌとステファンに関係するある決定的な描写すら、すっぽり省略されている。
フリーダが、二人の極めて些細な変化からそのことに気づくように、観客にも同じ成熟さが求められる映画なのだ。

「男は変わらないのに、なぜ女は変わるのか?」とフリーダがステファンに尋ねる。

「女は飽きやすく、男は忠実だからだ」

「悪くない答えね」とフリーダは納得するが、成熟さを尊ぶフランスならではの大人の会話が小気味よい。

第三者のステファンも、どこか一筋縄ではいかない孤独を感じさせる。

かつてフリーダの歳の離れた若き愛人だったといえ、自身も今や中年で未だ独身。
どうやら特定の長く続く関係を築けないでいるようだ。
フリーダから持たせてもらったカフェのオーナーで、つまりツバメにも近い関係だったことが推測されるが、今は老いた意地悪なフリーダがお荷物だと考えていて、そう思う自分に苦しんでいる。

その意味で、ステファンもまた孤独な大人の同類だ。

ジャンヌ・モローはシャネルを粋に着こなしつつ、顔はしわだらけで体型ももはや見るに堪えない。老醜を曝け出しているが、それでも人間としての魅力が美しい。
老婦人をこんな風に描け、しかも大女優が堂々と演じるところなど、さすがフランス映画である。

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トーマス・マン『ヴェニスに死す』

ルキノ・ヴィスコンティの映画『ベニスに死す』を鑑賞したのに合わせ、原作を再読した。

静養のためベニスを訪ねたドイツ人老作家のアシェンバハ。
ホテルで、ポーランド人の美少年タドゥツィオを見出す。
彼の美しさに魅了され、一方的な思慕を募らせるが、街に蔓延したコレラに罹り、恍惚の極致の中で静かな死を向かえる。

初めて読んだのは、おそらく高校生の頃である。
当時の自分が、物語をどのように読みとっていたか。
単に老醜を迎えた作家の、美少年に対する純愛として捉えていただけだと思う。

今回、改めて感じたのは、死の香りが伴う、究極の陶酔である。
死の陶酔とは、官能以外の何物でもない。
アシェンバハにとってのタドゥツィオは、単に同性愛の対象というよりは、尊く、完全な美そのものだ。

「美のみが愛するに足るものであると同時にこの目にはっきりと見えるものなのだ。よく聴くがいい、美こそはわれわれが感覚的に受容れ、感覚的に堪えることのできるたった一つの、精神的なものの形式なのだ」

驚いたのは、ヴィスコンティがいかに原作を忠実に映像化していたか、ということである。
主人公の職業を、マーラー本人を思わせる作曲家に戻したぐらいで、有名なラストシーン、浜辺での少年のあの仕草も、原作にそのまま描写されていた。

「突然、ふと何事かを思い出したように、ふとある衝動を感じたかのように、一方の手を腰に当てて、美しいからだの線をなよやかに崩し、肩ごしに岸辺を振返った」

白塗りの老人や、ホテルのテラスにやって来た流しの大道芸人なども、原作通り。
大道芸人の、不気味で薄気味悪い大笑いの理由が、原作にははっきりと書かれている。

「テラスの人たちに向かって臆面もなく投げつけられる彼の作り笑いの声は嘲笑であった」

彼は、街に疫病が蔓延していることも知らずにのんきに談笑しているホテルの金持ちの客たちを、バカにして笑っていたのだった。

原作から明瞭に浮かび上がってきたのは、なぜ物語の舞台がベニスでなければならなかったか、ということだ。

「この都の腐ったような空気の中で、かつて芸術は放恣なまでに栄え誇り、人の心を軽くゆすって、媚びつつ寝入らせる響きを音楽家にもたらした」

芸術の街として華やかな繁栄を誇った過去から、今や商業的な観光地に成り下がったベニスが、アシェンバハの半生そのものを象徴しているように思える。

さらにベニスと言えば、ゴンドラ。

「この世の中にあるものの中では棺だけがそれに似ている、この異様に黒い不可思議な乗物、ゴンドラは小波の音しか聞こえぬ夜の、静けさの中に行われた犯罪的な冒険を思い起こさせる。いや、それよりもなお死そのものを思わせる」

ベニスに到着したアシェンバハが、リド島に渡るために乗ったゴンドラは、そのまま黒い棺として、まもなく訪れる彼の死の葬送を暗示していたのだった。

 

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