想元紳市ブログ

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横田増生『評伝 ナンシー関「心に一人のナンシーを」』

2002年に39歳の若さで急逝したナンシー関。

今、彼女のコラムを読んでも、テレビや芸能人という水物を扱いながら、鮮度が全く落ちてないことに驚く。
本質をズバリと突く潔さ、言葉にするときの本気度は、今のコラムニストがいかに生ぬるい環境に甘んじているかを改めて認識させる。

没後10年を機に出版されたのが本評伝だ。

この中でも、みなが口を揃えたように、ナンシー関を超えるテレビ評論家はいまだ現れていないと嘆く。

ナンシーの大ファンだったという宮部みゆき。

「ナンシーさんは、簡単な言葉を使って、ほかの人がなかなか言語化できないことをさらりと表現できる能力を持った人でした」

『心に一人のナンシーを』というのは、大月隆寛の言葉である。

「どこかでナンシーが見てると思えば、自分で自分にツッコミ入れて、不用意に何かを信じたり、勝手な思い入れだけで突っ走ったりしなくなるんじゃないかと思ってさ」(大月とナンシーの共著『地獄で仏』)

ナンシーは、関係者から裏話を聞いても、全く参考にしようとしなかったという。

「あくまでもテレビに映るものを咀嚼するというナンシーの姿勢は、80年代から一貫しており、終始ぶれることがなかった」

そうした見方をするようになった個人的背景の一つとして、ナンシーの強度の弱視を指摘したところは、本書の最も興味深い箇所だ。

眼鏡をかけても0.3程度しか見えなかったらしい。
その上で、次の一文を読むと、意味するところは明瞭である。

「テレビというのは、ものをアップで見せるメディアだ。画面いっぱいに顔が映っているなど珍しくも何ともない構図であるが、日常生活の視界としては考えられないことである。(中略)
 私は、テレビに映ったことならば『見ている』自信がある。テレビなら、アップされた顔に、更にどんなに近づいても、何なら録画して一時停止にして見続けてもいい」(『何がどうして』)

さらに、『顔面至上主義』の中では、

「『人間は中身だ』とか『人はみかけによらない』という、なかば正論化された常套句は、『こぶ平っていい人らしいよ(だから結構好き)』とか『ルー大柴ってああ見えて頭いいんだって(だから嫌いじゃない)』というとんちんかんの温床になっている。いい人だからどうだというのだ。テレビに映った時につまらなければ、それは『つまらない』のである。何故、見せている以外のところまで推し量って同情してやらなければいけないのだ」

個人的にナンシー関と重なるところがあるのはマツコ・デラックス。
二人は2000年に『クイア・ジャパン』というゲイ雑誌で対談をしている。

デブと言われることに対し、小さい頃から規格外という自意識に生きてきたから自分からは絶対に仕掛けたりしないというナンシーに対し、マツコは「アタシだったら、その場で、相手の知りうるかぎりの欠点を突きまくるわ!」という違い。

テレビには出ないと決めていたナンシーとテレビの中で生きていくと決めたマツコの違いだと言いかえてもいいかもしれない。

現在のテレビの凋落ぶりを見ていると、ナンシー関の不在は不幸以外の何物でもない。

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小手鞠るい『美しい心臓』

知人に薦められて読んだ小手鞠るい著『美しい心臓』。

一つの恋愛が生まれてから終わるまでの心の揺れを、「わたし」の視点で苦しいまでに描ききった恋愛小説である。

ストーリー自体は単純明快、W不倫の話だ。

DV癖のある夫から逃れ、一人借りたアパートで、定期的に通ってくる妻子ある男と過ごす官能的な日々。

「死んでしまえばいい。あの人が死ねば。そう願ってしまうほど、好きだった」という言葉が、本の帯に引用されて宣伝文句となっているが、そんな感情など、たいして特別でも衝撃的でもなんでもない。

がぜん面白くなるのが、終盤、夫との離婚が成立し、自分を縛っていた鎖から解かれてからだ。
相手の男に関するある事実が判明したことを契機に、「わたし」は一線を越えることになる。
執着、妄想、邪推に囚われながらも、無意識に自ら出口を見つけ、そこに向かって進んでいく。

「耐えがたい苦悩があって、顔の歪むような苦痛があって、それらから解放されるときの無上の喜びがある。その喜びを『幸福』と名づけるとするなら、人はつねに、生涯を通して、なんらかの苦しみを必要としている、とは言えないだろうか」

そう気づいたとき、「わたし」は既に一歩を踏み出している。

閉ざされた世界を描き、それでいて生きることの、根源的な強さを感じさせる。

「不倫」という言葉が出てくるのは、小説の最後だ。

「そうか、わたしたちの関係は、あの日々は『不倫』と呼ばれるものだったのかと、わたしはまるで国語の授業を受けている学生のように理解した。同時にこうも思った。(中略)わたしが汚れているのではない。世間がわたしを汚すのだ」

著者の作品を読むのは初めてだが、数ある恋愛小説は多くの女性たちから熱く支持されているらしい。
リズムのある短い文章も、著者が元は詩人であったことを思うと納得がいく。

孤独な暗い私生活を持つ30代の女性作家を思い描いていたが、どうやら、既に50代後半、アメリカ人の夫とNY州に在住し、趣味は登山などのアウトドア系らしい。
少々意外な気もしたが、だからこそ書けるどこか乾いた冷めた視点が、若い女性作家の書くありがちな自己愛恋愛小説とは、一味違う読後感を与えてくれるのかもしれない。



辻村深月『鍵のない夢を見る』

昨年の直木賞受賞作である。

一人称の女性を主人公にした5編からなる短編集。
共通点はそれぞれの物語の中心に一つの犯罪があること。

結婚、子育て、仕事、恋愛など、女性にまつわる言わば定番の物語だが、ここで綴られるのは、内面のネガティブな感情である。
狭苦しい日常の中で次第に鬱積し、屈折していく孤独や不満、焦り、それらが肥大化していった先にあるもの。

正直、読後には不快感が残るものもある。だが、まさに女性にしか書けない独特の世界に浸った。

同級生の母親の万引き癖を描いた『仁志野町の泥棒』。
育児ノイローゼになった母親がささいな騒動を巻き起こす『君本家の誘拐』。
放火事件の犯人と奇妙なわだかまりを抱くOL『石蕗南地区の放火』。
出会い系サイトで出会ったDV癖のある男との逃避行『美弥谷団地の逃亡者』。

『芹葉大学の夢と殺人』で描かれるのは、非現実的な夢を追い続ける駄目男に恋してしまった駄目女の悲劇だ。

「好きという魔物の感情」に取り憑かれた女が、どうしようもない男だと知りつつ、それでも執着を捨てられないのは、明らかに自己愛の裏返しである。

「私と雄大は、ともに自分にわかる言葉だけを頑なに話し続け、周囲の言葉をまるで理解しようとしない異邦人同士で、心細いから、寄り添い合った」

「夢を見るのは、無条件に正しさを信じることができる者だけに許された特権だ。疑いなく、正しさを信じること。その正しさを自分に強いることだ。それは水槽の中でしか生きられない、観賞魚のような生き方だ。だけどもう、私にはきれいな水を望むことができない。これから先に手に入れる水はきっと、どんなに微量であっても泥を含んでいる気がした」

何年たっても男は変わらず、女が望む愛情を示そうともしない。

「たった一つ。自分以外の者に執着すればいい。夢以外に失うのが嫌な、大事な何かを創れば、誰かを愛しさえすれば、幸せを感じることが、きっとできる」

女がたどり着く、そんな身勝手な結論。
それは己にこそ当てはまるとは考えもせず、やがて、自己陶酔の果て究極の選択をとる。

本当の被害者は女ではなく、男の方だったのかもしれない、とすら思えてくる。



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