想元紳市ブログ

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『横道世之介』

物語の舞台は1987年。
大学進学のため長崎から上京してきた横道世之介が、色々な人物と出会い、様々な経験をしながら一年を過ごす。

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少々天然だが、天真爛漫さで誰からも好かれる世之介。
とは言っても、傍から見れば、どこにでもいるごく普通の若者だ。
そんな彼が出会うのも、これまた珍しくもない普通の人々。
妊娠から学生結婚する同級生二人、憧れの大人の女性、ガールフレンドになる社長令嬢、ゲイの同級生、東京かぶれの田舎の先輩……。
たいした事件も起こらない。

それなのに、普通の人々の、ありふれた日常の日々が、なぜこんなにも切ないのだろう。

CGで再現された1987年の新宿の街や人々のファッション・風俗など、当時をリアルタイムで知っている自分は、画面を見ているだけで愛おしさがこみ上げてくるのだが、そこにあるのは、楽しかった青春のある時代、失われてしまったものに対するノスタルジーである。

それを際立せるかのように、1987年の物語に、ときおり16年後、2003年の今が挿入される。
2003年には世之介は不在で、彼と関わった人々が、ふとしたことから世之介を思い出す。

「なんだか面白いやつだった」
「笑っちゃうぐらい普通のやつ」
「あの頃、あいつに出会えてよかった」

過去を振り返る彼らの今は、それぞれが辿ってきた16年の一端を微かに垣間見せるが、具体的にどのようなものであったのかはわからない。
映画では描かれない16年の空白こそが、世之介をめぐる物語に、一つの深い陰影を与えているのである。

月日と共に、人はみな否応なく変わっていく。
様々な予期せぬことが起こり、時に幸せに浸り、時に激しく挫折しながらも痛みに耐え、なんとか前に進み、歳を重ねていく。
知らず知らずかさぶたのようにこびり付いていく、そんな哀しさの中で、世之介の記憶だけはいつまでも変わらないものの象徴として、彼らの中に生き続けているのである。

原作は吉田修一。
世之介を演じたのが高良健吾、ガールフレンドの祥子を吉高由里子。
流行のハンバーガーショップでの初めてのデート、祥子の家で世之介が交際を申し込むシーンなど、二人のみずみずしいまでに自然な演技がいい。

そして、世之介が大学で加入するのは、派手なサンバ・サークル。
サンバとは、いかにも世之介らしいと同時に、やがてピークを迎え弾ける運命の、バブル経済に浮足立った当時の日本の雰囲気そのものを象徴しているかのようだ。

 
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リディア・デイヴィス『ほとんど記憶のない女』

話の終わり』がとても好きだったリディア・デイヴィスの短編集『ほとんど記憶のない女』を読んだ。

トータル200ページ足らずに収められた51もの短編は、わずか数行のものから30ページ程度のものまで、分量も内容も様々。
主人公さえ不明なもの、何らかのストーリーらしきものがあるもの・ないもの、小説と言うより散文詩のようなもの、メモ書きに近いもの。
背景も原因も、結末もなかったり、誰かが切れ切れの感情を思いつくまま記しただけのものも多い。

ただ、どれもがどこか奇妙な視点で切り取られた平凡な日常である。

翻訳した岸本佐知子による解説。

「彼女の書くものが小説としては壊れた形をしていて、時に何か組み立てられる前のパーツのような様相を呈している」

言わば、何かの断面にすぎない短編の、一編一編の中に記されるエピソードや物事から、読者は自由に、勝手な人生や世界を思い巡らす。

「私が興味をもつのは、つねに出来事よりも、その裏で人間が何を考え、どう意識が動くか、そのプロセスなのです」というのは、リディア・ディヴィス自身の言葉である。

好きだったのは、カウボーイとの結婚を夢想する女教師の話『大学教師』、屋敷と庭と犬二頭猫二匹の世話をする住み込み管理人の話『サン・マルタン』、焼死した叔母の恋人だった男につきまとう女の話『ノックリー氏』など。

心に残った文章を幾つか引用しておく。

「そのころの私は四六時中考えてばかりいて、考えすぎる自分にうんざりしていた。他のこともしたが、それをしているあいだも考えていた。何かを感じても、感じながら自分が感じていることについて考えていた。自分が考えていることについて考え、なぜそれを考えるのかまで考えずにいられなかった」『大学教師』

「私だって私のことを完全に知っているわけではなく、あることがらについては私よりも他の人たちのほうがよく知っているかもしれず、なのに私は私について何もかも知っていると当然のように思っていて、知っているような顔で日々を生きているだけなのかもしれない。だがたとえそうとわかったところで、私は私のことを何もかも知っているような顔で日々を生きつづけるより他にない、ただ時には他の人たちが知っていて私が知らないこととは何だろうと、あれこれ想像してみるかもしれないけれど」『ある友人』

「ちかごろ私は、自分の気分なんて大して重要ではないと考える努力をしている。今までにも何度か、本の中でそういう考え方に出会ったことはあった――自分の気分は重要だけれど、世界の中心というわけではないのだ。頭ではわかっていてもなかなか実行に移せないのは、たぶんまだ心からはそう信じていないからだ。もっと心からそう信じられるようになりたいと思う」『自分の気分』


『アルバート氏の人生』

19世紀のアイルランド、ダブリン。
ホテルの住み込みウェイターとして働くアルバートは、実は男装した女性。
身寄りがなく、極貧の生活のために若いときから性別を偽り生きてきたのである。
必死で貯めたチップを床下に隠し、将来自分の小さな店を持つことだけが夢だ。

そこに、ペンキ塗り職人のヒューバートが雇われてくる。
彼も、実はアルバート同様男装した女性であり、それだけでなく仕立て屋の女と夫婦同然の幸せな生活も手に入れていることを知り、アルバートは我もと焦り、動き出す。
一緒に店を営もうとウェイトレスのヘレンに唐突な求愛をするが、もちろんヘレンはそれを受け入れるどころか、ホテルの悪ぶれた使用人と恋仲で、しかも妊娠までしていた。

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この映画を最初に観たとき、自己の夢のためには相手の感情を省みないアルバートの行動が不可解でしかなかった。
結局、貧困がいかに人間の心を荒廃させるのか、そのため、ついに真実の愛を知りえなかった人間の悲劇を描いた映画だとしか思えなかった。

しかし、鑑賞後には、なぜかしみじみとした余韻が残る。
それどころか、二度目に観たときには、アルバートの不器用な一途さが、この上なく尊いものにすら思えてきたから不思議だ。

確かにヘレンを本来の意味で愛していたのかは疑問だが、他者を欲し求める感情を、現代の恋愛の定義だけで捉えていいものか、ましてや19世紀のあの時代を考えると尚更のこと。

アルバートが本物のレズビアンであったのかは曖昧なまま。それはおそらく、本人にとってたいした意味をなさないものだからだろう。

ヘレンのようないかにも女という生き方への憧れ、写真でしか知らない実母に対する思慕、だからこそ捨てきれない自己の母性など、隠された複雑な感情が表に結晶したものがヘレンに対する思いであり、それはそれで純粋な一つの愛の形に他ならない。

グレン・クローズは、ブロードウェイでもアルバートを演じ、映画化にあたっては製作、共同脚本、音楽の作詞まで手掛けた。
もちろん主演として、アルバートの抑圧された人間性を圧倒的な存在感で演じきっている。
その男装ぶりは、『イエントル』のバーブラ・ストライサンドや『ボーイズ・ドント・クライ』のヒラリー・スワンク以上。

またヒューバートを演じたジャネット・マクティアが巧い。
ヒューバートは、物語の中で唯一真実の愛を知る人物で、暗くよどんだ結末に、一筋の光をもたらすのも彼である。

監督のロドリコ・ガルシアは、『美しい人』『愛する人』『彼女を見ればわかること』など、ひたすら女を描き続けてきた人で、もしやと以前から思っていたが、今回もこのテーマ、さらにホテルの客に意味深な男色の公爵を登場させるなど、益々怪しい。


『ブロードウェイと銃弾』

1995年公開、ウディ・アレンの『ブロードウェイと銃弾』は、禁酒法の嵐が吹き荒れる1920年代のブロードウェイが舞台。

売れない劇作家デヴィッドの戯曲がついに舞台化決定。
しかし、スポンサーはマフィアのボス。キャバレーのお馬鹿な踊り子である愛人にせがまれて、役を与えることだけが目的だった。

芝居の主要キャストは、愛人オリーブ含めて4人。
大女優だがもはや過去の人、未だ虚栄心だけは過剰なヘレン。
いつも犬連れで奇妙な言動が痛いイギリス人女優のイーデン。
名のある役者だが、過食症が原因で体重のコントロールができないワーナー。

みな曲者ばかりで、稽古の初日から大荒れ。それぞれが言いたい放題で、台本はズタズタに。
マフィアのボスがオリーブの見張り役に付けた用心棒のチーチまでもが、リハーサルを観て馬鹿にしたように嘲笑う。

「『人間の心は迷路』だと? 氷で凍らせても鼻が曲がるようなくさいセリフだな」

実はこのチーチ、デヴィッド以上に劇作の才能溢れる男だったことから、物語はおかしな方向に転がっていく。

劇作家をジョン・キューザック、オリーブをジェニファー・ティリー、ヘレンをダイアン・ウィースト、ワーナーをジム・ブロードベント、イーデンをトレシー・ウルマンと、癖のある役者による怪演合戦が見どころだ。

彼らはみな相当にエキセントリックだが、もしかして現実のブロードウェイも、実はそんな裏方や役者で成立しているのかもしれない、と思わせる妙なリアリティがある。
おそらく、ウディ・アレンの実体験が相当盛り込まれているはずで、そう思うと、映画全体が痛烈な皮肉に見えてくる。

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ダイアン・ウィーストは、本作で見事アカデミー最優秀助演女優賞を受賞。
それも納得の、痛すぎる、しかしどこか可愛げのある大女優っぷりは、この映画の華である。

ヘレンは、どこまでが演技でどこまでが素なのか、掴みどころない浮世離れした女なのだが、それでいてときおり、意外にシリアスな、さりげない箴言をポツリと吐くのである。

「言葉に何の意味があるというの? 人間にとって本当に大切なものは、言葉になんかならないのよ」

ハチャメチャな人々との不要な摩擦、一冊の台本をめぐるドタバタをなんとか乗り越えて、最後にデヴィッドが気づくのは、偽らざる恋人への愛であった、というオチがつくのは、いかにもウディ・アレンらしい。

彼の最近の作品はヨーロッパを舞台にしたものが続いている。
どれもそこそこ面白いのだが、やはり自分はマンハッタンを舞台にした一連の作品群が好きだ。
『アニーホール』『マンハッタン』『ハンナとその姉妹』『夫たち、妻たち』など。

『ブロードウェイと銃弾』はこれら作品を生みだしたウディ・アレン黄金期の、おそらく最後の方に位置する作品で、これ以降、いっとき私生活におけるスキャンダルもあって、しばらくの混迷期に入っていった気がする。