想元紳市ブログ

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『女の園』

木下惠介監督、1954年の作品『女の園』。

良妻賢母育成を校訓とする京都にある女子大学。
厳格な校則と行き過ぎた束縛に反発し、自由と民主主義に目覚めた女子学生たちが立ち上がり学校側と対立、それがやがて悲劇をもたらす。

冷酷な教師兼寮母、五條を演じたのが高峰三枝子。

寮の同室になる女子学生の中で、中心になるのが以下の三人だ。
3年の銀行勤めの後に入学してきた芳江を、高峰秀子。
財閥の子女で、左翼崩れの考えを持つリーダー格の明子を、久我美子。
有望テニス選手であり、自由気ままで行動的な富子を、岸恵子。

芳江は、親に反対されている恋人が東京におり、将来二人で自立するために進学してきたのである。
ところが、学校からの陰湿な束縛により将来を悲観し、精神的に追い込まれ、壊れていく。

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物語自体は、今見ると随分古臭い。
主人公である芳江もビービー泣き続けて弱々しく、あまり魅力的に感じられないのだが、女優陣の熱演する女同士の戦いとしてみると独特の面白さはある。

なんといっても見どころは、いつも恐い顔した高峰三枝子の意地悪さだ。

久我は、高峰に「おこんちゃん」とあだ名をつけている。

「おこんちゃんって、あんな綺麗な顔しているけど、本当はとっても怖いの。キツネに似ているからおこんちゃんじゃないのよ。ばかされるからよ」

同僚の男教師からさえ「あなたは、クンクン嗅ぎまわって、まるで犬のようだ」とまで言われるのである。

この冷酷な寮母、実は若い頃、不倫相手との仲を無理やり裂かれ、産んだ私生児も奪われた過去があり、その怨みを女子学生たちにぶつけているのである。

そんな過去を唯一知っている久我は、三人の女学生の中で、最も儲け役かもしれない。
終盤、ついに化けの皮が剥がれた寮母と、正面から対峙するのも彼女だ。

それ以外にも、能面のようなしたたかな校長を演じた東山千栄子、富子の知り合いのおばさんを演じた浪花千栄子が、少ない出番ながら強烈な印象を残す。


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『愛、アムール』

パリに暮らす元音楽家の老夫婦、アンヌとジョルジュ。

愛弟子のコンサートを鑑賞した日の翌日から、突然、妻は病で壊れ始める。
脳梗塞あたりを発症したのか、その後の手術も失敗し、半身不随の体になって退院する妻。
それから、夫による自宅介護の日々が始まる。

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老老介護は、とりわけ高齢化社会の進むここ日本において、全く目新しいテーマではない。
この映画を特別なものにしているのは、ひとえにミヒャエル・ハネケ監督の芸術的アプローチにある。

ハネケは、一切の感情を排したような、冷めた視線で、淡々と二人の時間を見つめ続ける。
汚いところも見せ、老いた体もさらす。

さらに、様々な解釈が可能な隙間をあちらこちらに残し、意図的にわかりにくくしている。

重要なシーンは、ほとんど省略されているか、暗示されているだけ。
数少ない決定的なシーンですら、それが本当に起こったことなのか、あるいは夢や妄想の世界なのか、どちらにもとれる曖昧さを残す。

夫婦はいかに老い、互いの死を向かえ入れるべきなのか、という問いには、それぞれが考え、答えを見出す以外にない、ということか。

本作を、単に夫婦の深い愛の物語などと述べるのはあまりにも安易だ。

退院してきた妻は、夫に有無を言わせず、ニ度と病院に戻さないことを約束させる。
とても達者には見えない夫による献身的な介護はあまりに痛々しく、妻の意思は、随分身勝手なものであったと言わざるを得ない。
さらに、そんな両親を放置し、たまにしか帰ってこないくせに、口だけは立派なことを言う一人娘。
最後に夫の下す決断も、利己的だと考える人も少なくないだろう。

関係の根底には、おそらくフランス流の徹底した個人主義が流れており、それを前提として観る必要があるのだろう。

映画館は、中年以上の男女であふれていたが、配給会社の間違った宣伝のおかげで、心温まる夫婦愛を期待していった人は、随分肩透かしを食ったに違いない。

印象的なシーンがある。
窓から、室内に二度、一羽の鳩が紛れ込む。
夫は、一度目は追い立てて窓から逃がし、二度目は上から毛布を被せて捕え、くるんで胸に抱きしめる。

二度目の行為は、後に夫が妻に対して行う、ある行為と重なる。

とすると、鳩は、もしかして生命そのものを象徴しているのかもしれない、と思えてくる。

 

折口信夫『口ぶえ』

明治生まれ、大正から昭和にかけて活躍した、民俗・国文学者の折口信夫は、日本を代表するインテリ・ゲイの一人であろう。

折口が中学時代を回想した、自伝的小説にあたるのが『口ぶえ』だ。

欠字部分があったり、最後も「前篇終」とあるにも関わらず後篇はなかったり、と習作であることは否めないのだが、それでも、何とも言えず不思議な味わいがあった。

「学校の後園に、あかしやの花が咲いて、生徒らの、めりやすのしやつを脱ぐ、爽やかな五月は来た」

旧字体ゆえにどうしてもゆっくりと文字を追わねばならず、その結果、独特の短い文章のリズムと相まって、なんだか心地よい気持ちにさえなってくる。

内容そのものは、じっとりと湿度を帯びて、鬱々としている。
中学三年の漆間安良を主人公に、中心になるのは、上級生の岡沢と同級生の渥美という二人に対する、微妙な思いだ。

同性に対する特別な感情に目覚める安良。
憧れと嫌悪が曖昧に入り混じった感情を、どのように理解していいかわからない、多感な季節を描いた小説、だと自分は読んだ。

「あゝけがわらしい心を燃やしてゐる間に、丹誠した草花は、みな枯れてしまった。美しい脆い心も、その草花と一処に枯れてしまつたのである。彼は、茶色になつて萎え伏した草のうへに、まざまざと荒んで行つた少年の心のあとを見た。ぼうとあたりが曇つて来て、安良の瞼はもちこたへられなくなつた。涙がぼろぼろと、草の葉にかかる」

「安良は幾度か、上級生から手渡された、さつきの手紙を開封しかけては、ためらうた。豊かな楽しい予期にまじる、心もとない哀愁に、胸はおそろしく波立つた」

死への憧憬に囚われる渥美と共に手を取り合う結末には、陶酔とも言える、強烈なナルシシズムを感じた。

折口は、もちろん生涯独身で、弟子の藤井春洋を養子に向かえた。
事実上の婚姻であった、とも言われている。
春洋の死後、折口の最期を看取ったもう一人の弟子、岡野弘彦は、現在も歌人として活躍している。


沼田まほかる『痺れる』

彼女がその名を知らない鳥たち』を読んで以来、すっかり沼田まほかるの虜である。

『痺れる』は9編からなる彼女の唯一の短編集だ。
短編においても、人間のどす黒い闇に容赦なく切り込んでいく、独特のホラーサスペンス感は変わらない。
ホラーと言っても、人間そのもの、人間の心の怖さである。

『林檎曼荼羅』は、認知症を患った一人暮らしの「わたし」が、押入れを片付けながら過去を振り返る物語である。
結婚し別居している一人息子に関わる、12年前の事件の秘密が暴かれる。
その日、同居していた姑が忽然と姿を消し、それ以来消息が不明のままなのだ。

グロテスクなシーンが、独特の表現で描写されるが、それは現実なのか、あるいはボケた「わたし」の幻想なのか、はっきりと明示されないままに、読者はいつの間にか摩訶不思議な場所に連れて行かれる。

「繰り返し繰り返したどりなおした記憶は、磨きこまれたものの硬い光沢を帯びて、事実そのものよりもっと事実であるような何ものかに少しずつ変質していく」

『エトワール』の主人公は、不倫をしている37歳の女である。
男の妻に激しく嫉妬する物語は、散々描きつくされてきたテーマだが、沼田まほかるの手にかかると、一味違う。

「私にとって奈緒子と吉澤は、性を違えていながらまるで一卵性双生児のような存在だった。いつのまにか私は、一方で奈緒子に激しく嫉妬しながら、他方では奈緒子と吉澤の両方に恋をしているような、なんとも名状しがたい心を抱いているのだった」

最後に待ち受けている驚くべき結末。

読者の視線は、狂気に走る「わたし」から、一転、吉澤という相手の男の不気味さに持って行かれてしまう。