想元紳市ブログ

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『扉をたたく人』

テレビの深夜放送で観たのだが、地味ながら味わい深い秀作だった。

妻に先立たれて以来、無気力に生きている大学教授のウォルター。
NYにある別宅に戻ると、見ず知らずの若いカップルが住んでいた。
ジャルベ奏者であるシリア人の男タレクと、セネガル人のゼイナブは、どうやら賃貸詐欺にかかっていたらしい。
仕方なく三人は同居を始めるが、やがてウォルターはジャルベの楽しさを知り、路上演奏するほどにのめり込んでいく。
ところが、ある日のこと、タレクが不法滞在で逮捕されてしまう。

自分の殻に閉じ籠っていた男が、他者との触れ合いの中で次第に心を開いていくという設定そのものは、正直、目新しいものではない。
物語が俄然面白くなるのは、後半、タレクの母モーナが訪ねてきてからである。

冴えない中年男と、息子のため強い意志を持って行動する中年女の心が、次第に寄り添っていくプロセスが切ない。

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と言っても、最後まで愛の言葉が交わされることはなく、大人の静かな交流が深まるばかり……。
雨の降る夜、マンハッタンを二人で歩く姿のしみじみとした美しさといったらどうだろう。
その後、レストランでついにウォルターが今までひた隠してきた自分の弱さを吐露するシーンに、胸を打たれた。

この映画のもう一つのテーマが、9.11以後保守化するアメリカ社会の理不尽を突くことである。

タレクもモーナも正式に移民申請をしていたにも関わらず、なかなか承認されなかった。
そもそもタレクの逮捕は、誤認であり、つまり無実であったのだが、ひとたびアラブ人であるとわかるや、酌量の余地なく国外退去を余儀なくされる。

そうした現代アメリカを覆い始めた歪な保守化の中で、モーナはついに決意する……。

自立した強い女モーナを演じたアラブ系女優ヒアム・アッバスの気品ある美しさに、目を奪われた。

リチャード・ジェンキンスは、長年のバイプレイヤーから本作で初めて主役を演じ、そんなキャリアが、ウォルターという男に一層の陰影をもたらしていることは間違いない。


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『ゼロ・ダーク・サーティ』

9.11同時多発テロ後のアメリカ。
オサマ・ビン・ラディンを追い続け、ついに探し当てたのは一人の女性CIA局員だった――。

2時間半、これほど緊迫感に包まれたまま観続けた映画は久しぶりである。
実話だという以上に、監督キャスリン・ビグローの冷徹な視点とリーダーシップにより、映画として、圧倒的な完成度をなし得たからにほかにならない。

主人公マヤを演じ、幾多の主演女優賞を受賞しているジェシカ・チャステイン。
最初はなんだかもどかしく、今一つ存在感も希薄だが、次第にそれが演技上計算されたものであったことがわかってくる。

ビン・ラディンの所在を特定できないまま数年が過ぎ、その間、さらなるテロによって仲間を失い、絶望し、孤立し、自らも命の危険にさらされていく中、水面下で、静かな変貌を遂げていくのである。
その姿は、使命とも、執念ともみてとれるが、映画では描かれない、もしかして生い立ちにも関係するかもしれない、彼女自身の内面にある何物かが突き動かしているとしか思えない凄みがある。

ついにビン・ラディンの居場所を突き止め、映画のタイトルでもある、深夜0:30に特殊部隊が乗り込むシーンの緊迫感は尋常ではない。

その生々しすぎるまでに迫力ある映像は、例えば、本物のベトナム戦争を描きたいとオリバー・ストーンが作った『プラトーン』を思い出させる。
しかし、『プラトーン』が最後の最後に、主人公の饒舌なモノローグによって、その意図を台無しにしてしまった失敗をビグローは繰り返さない。

マヤの顔のアップで終わる、素晴らしいエンディング。

ビグローが、前作『ハート・ロッカー』でも、最後のシーンによって映画全体に一つの意味を与えることに成功していたことを思い出す。
ビン・ラディンを追い続けるマヤの姿は、タブーとも言われたこの映画を、完成させよう苦しむビクローの姿とだぶる。

ラストにマヤが見せる複雑な表情には、ビグロー自身の微かな戸惑いが投影されているような気がしてならない。

正義のアメリカと悪のアルカイダいう図式をアメリカ人監督が描くという以上、本作品が政治的には一方向となるのは避けられない。

ビン・ラディン殺害という結末は、果たして、単純に諸手を挙げて歓喜すべきハッピーエンドだったのか……。
一瞬脳裏をよぎった疑問と、そこから生じた新たな恐怖を、マヤの表情に、自分ははっきりと見た気がした。

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アニー・プルー『ブロークバック・マウンテン』

アニー・プルーの原作小説を初めて読んだ。

アメリカ北西部の山岳地帯を舞台に、年に1度か2度の逢瀬を続けたイニスとジャック、16年の物語だ。
二人だけで過ごす山以外では決して公言できない愛と、二人を待ち受ける残酷な結末。

短編にも関わらず、クライマックスでは映画を観たときと同じように涙がこぼれた。

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映画は原作をほぼ忠実に映像化していることがわかった。
小説においては、ジャックの性的指向を決定づけた、父親との関係がさりげなく描写される程度の違いだ。

そして、映画以上により強く感じられるのが、無力感というものである。

「『俺はどっちも欲しくなかった』とジャックは言った。『だが、思い通りには全然運ばなかった。ちきしょう、俺が望むものは一つとして、まともに手に入りやしないんだ』そう言って、寝そべったまま枯れ木を火に投げ入れた。火花とともに、二人の真実と嘘とが舞い上がった。(中略)一つだけ、時を経てもずっと変わらないことがあった。たまの逢瀬のめくるめく興奮に、時間の意識が影を落としていること。飛び去っていく時間。足りない、いつだって足りない時間」

「自分が知ったことと、信じようとしたこととのあいだには、いささか隙間が空いていた。だが、それはどうすることもできない。そして、自分で解決できないなら、それは我慢するしかないのだ」

しかし、どうしようもない無力感の中にも、弱さはない。
激しい内面の葛藤から滲み出る赤い血は、人間本来の温かさを持っている。

今や同性婚がメジャーなものになり、テレビにはゲイが溢れる世の中だが、少なくとも今の日本では、まだごく限られた一部の状況にすぎない。多くのゲイにとって二人の背負った重荷はなんら変わっていないのだ。

「結局のところ、今自分たちが話したことに目新しいことは何一つなかったからだ。何も終わっていないし、何も始まっていないし、何も解決していない」

さらに言うならば、ゲイに限った物語ではないのだと思う。

本書を手にした、そもそものきっかけは、三浦しをんとよしながふみが対談で映画を酷評していたこと。
BL好き女子、いわゆる腐女子で有名な二人が、この展開はあり得ないとし、「もう少し日本の少女マンガやBLの名作を読めと言いたくなりました」とまで貶しているのを読み、呆れた果てたのだ。

映画は当事者のゲイの間では、ほぼ肯定的に、一部熱狂的に受け入れられている。
ここには、BLが好き勝手に描く妄想ファンタジーとは、全く異次元の現実がある。

 

『ライフ・オブ・パイ トラと漂流した227日』

カナダに移住することを決意した、インドのある一家。
経営していた動物園の動物たちを引き連れ、船に乗って太平洋を航行中に嵐に遭い、遭難する。
パイという名の少年と、ベンガルトラ・シマウマ・オランウータン・ハイエナの4頭が小さな救命ボートで漂流することになる。

児童向きの冒険物語ではない。
映像の類まれなる美しさの裏側に、ファンタジーとは無縁の、哲学的とも言えるテーマがどっしりと根を張っているのである。
それは、宗教にも通じる生死の、尊厳の物語だ。

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ヤン・マーテルの原作を読んだのは随分昔。
映像化不可能とまで言われ、実際、監督の降板など多くの紆余曲折があったのち、最後に引き受けたのがアン・リー監督。
動物園や海洋のシーンは、母国の台湾で撮影されたらしい。

映画は、今や二人の子持ちとなったパイが、一人のカナダ人小説家からインタビューされ、回想する形で始まる。
前半はやや緩慢だが、いったん漂流が始まると、圧倒的な映像美で独特の世界に導かれ、やがて驚くべき結末に至る。

結局、生き残るのはパイと、リチャード・パーカーと名付けられたベンガルトラ一頭だが、物語を紐解くためには、イギリスでは有名な、19世紀に起きた実際の事件を思い起こさねばならない。

イギリスからオーストラリアに向かっていたヨットが難破し、船長、船員2人、使用人の少年が救命ボートで漂流。
まもなく少年が衰弱したため、3人は少年を殺害し、人肉を貪ることによって生還することができたというのだ。
その少年の名がリチャード・パーカーだった。

その事件含め、幾つもの伏線や暗示が至る所に散りばめられているのだが、観る者に解釈を委ねたまま、最後まで明快な答えは提示されない。

救出されたパイが、病室で語る二つの物語。

「あなたは、どちらの物語の方が好きですか?」

パイの口を通し、我々にそう問いかけて映画は終わってしまうのである。

 

『男たちの絆、アジア映画 ホモソーシャルな欲望』

四方田犬彦・斉藤綾子編の本書は、アメリカの社会学者イヴ・セジウィックの説いた「ホモソーシャル」の概念を、アジア映画という枠組みの中で捉えた7つの論文を集めたものである。

「ホモソーシャル」とは簡単に言うと、男性同士の強固な絆、女性の周縁化、ホモフォビア(同性愛恐怖)の三要素を柱とするジェンダーの概念である。「ホモセクシャル」とは表裏一体だ。

取り上げられるのは、日本の日活アクション映画、高倉健の任侠映画、中国の『三国志』や『西遊記』、『男たちの挽歌』など香港ノワール、スタンリー・クアン、韓国の『カル』など。

正直、書いてあることの半分も理解できなかったのだが、実のところ、社会学的アプローチには全く関心もない。
興味深かったのは、アン・ニ氏による映画『さらば、わが愛』に関する分析である。

同じ京劇俳優養成所で育った、女形の蝶衣と男役の小楼、二人の愛憎入り混じる半生を、文革を挟む中国激動の50年を背景に描いた傑作だ。

レスリー・チャンの演じた蝶衣のホモセクシャルについては、生来のものではなく、幼少期から他者によって押し付けられたものであるとし、次のように分析する。

「彼においては、男性として生きる願望が舞台で女性を演じるのを強要された幼少の体験とない交ぜになり、混沌とした形で交じり合い葛藤している」

例えば、養成所入団のため、母親に六本目の奇形指を切断されるシーンは、去勢の象徴だという指摘。

また、「私は女」というべき台詞を「私は男」と何度も言い間違える蝶衣に対し、怒った小楼が突然キセルを取り出し、蝶衣の口に突っ込んで血が出るまでかき回すという行為は、性行為そのものを暗示しているという指摘。

「蝶衣は死でもってはじめて、苦悩し続けた男性と女性、蝶衣と虞姫との境界線を超越できたのではなかろうか」

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さらに、それをレスリー・チャンの自殺に重ねる。

「演技上の世界の苦悩と私生活の感情問題という二重の苦しみを抱え込み、それを上手に割り切れないことが自殺の引き金になったのであれば、蝶衣をみごとに演じきったことで演技の頂点に登ったレスリー・チャンは、逆にそれによって、人生の行くべき方向を見失ってしまったのだろうか?」

もう一方の小楼について、さらに小楼の妻についての分析も、実に面白かった。

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