想元紳市ブログ

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『三人の女』

ロバート・アルトマン監督、1977年の傑作『三人の女』。

冒頭から結末まで、終始、奇妙過ぎる不協和音が鳴り響いたまま、物語を読み解くことも難解極まりない。

風変りな大筋はこうだ。

カリフォルニアにある、老人専用の温泉リハビリ施設。
介護士のミリーは、周囲から無視同然の扱いを受けているのに、平然とおしゃべりを続けるような、空気の読めない痛い女。
新人介護士ピンキーが、ミリーの新しいルームメイトになるのだが、鈍感な彼女も負けず劣らず変わり者。
ただ、ミリーを完璧な女だと崇め、同一視するほどエスカレートしていく。男絡みで疎ましく思ったミリーに激しく罵倒され、自殺未遂まで起こしてしまう。
ところが、昏睡から目覚めたピンキーは、別人のように強く奔放な女に豹変。その結果、二人の立場どころか、内面が完全に入れ替わったように、すべてが逆転するのである。

ミリーを演じたシェリー・デュバル、ピンキーを演じたシシー・スペイセクという、稀代の演技派女優二人の個性があまりに強烈だ。

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三人めの女は、画家のウィリーである。
が、出番は少なく、むしろ彼女の描いた絵の方がインパクトが強い。
それは、獣と化した男女数名のセクシャルな群像画。

女の屈折した嫉妬や羨望、同性愛、トラウマ、母性、欲求不満など、一言では容易に説明できない深層心理や無意識の領域こそが、この物語を紐解く鍵ではないかとも思える。

その意味で、三人の女は、一人の女の内側にある幾つもの顔を肥大化させたものなのかもしれない。

公開時の宣伝コピーが実に上手い。

「1人の女が2人に……2人の女が3人に……そして、3人の女が1人になった」

至るところに様々なヒントが隠されている。

ミリーとピンキーはともにニックネームであり、本名は同じミルドレッドであること。
二人とも同じテキサス出身であること。
リハビリ施設で働く、一卵性双生児の介護士の女二人。
最後、なぜかミリーはママと呼ばれ、ピンキーがミリーと呼ばれていること。

不思議なことに、オリジナルポスターに描かれているのはミリーとウィリーだけで、ピンキーの姿がない。
その代り、二人の背後に垣間見えるのは、ウィリーの描いた不気味な怪物の姿である。


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『ぼくのエリ 200歳の少女』

2008年のスウェーデン映画。
裏切りのサーカス』があまりに素晴らしかったトーマス・アルフレッドソン監督の、前作にあたる作品が『ぼくのエリ 200歳の少女』。

こんなにセンチメンタルで、ピュアで、切ないヴァンパイア映画がかつてあっただろうか。

ストックホルム郊外に母と暮らす12歳の少年オスカーは、内向的な性格ゆえ、学校ではいじめの標的。
ある夜、アパートの隣の部屋に、父と娘らしき二人が引っ越してくる。
少女の名はエリ。
ミステリアスな少女にオスカーは魅かれ、やがて二人は幼い恋人同士になるのだが、実は、エリはヴァンパイアだった……。

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物語自体はとてもシンプルなのだが、ここでも『裏切りのサーカス』同様、饒舌に語られないもう一つのテーマが、あちらこちらに顔を出す。
ホモセクシャルである。

まず、オスカーの父。
どうやら母と離婚した理由は父のホモセクシャルにあったのではないか、と暗示させるシーンがある。

そして、エリ自身。
「私は少女じゃない」と何度もエリは言う。
日本公開版ではそれを示す決定的なシーンにぼかしが入っているためにかなり解り辛くなっているのだが、エリは実は去勢された少年なのだ。

そう考えると、殺人鬼となって、エリのために生き血を集める父らしき男は、エリに魅入られた、性倒錯者だと見ることもできる。
男は、自らの命をかけてエリに奉仕し、守り抜こうとする。
その姿はどこか恍惚としており、壮絶な最期は殉死にすら思えてくる。

屋内プールでオスカーをいじめる少年たちに、ついにエリが復讐を遂げる、美し過ぎるシーン。
無音の水中を漂う血や肉片……。
ある種の残酷さは、突き詰めた美と紙一重であることを、監督はここで見事に証明してみせた。

オスカーは、エリと生きていく道を選ぶ。
永遠に歳をとらないエリに対し、オスカーだけが普通に老いていくのだということは、自らの命を犠牲に無償の愛を捧げた男と、もしかして同じ道を歩もうとしているのかもしれない、とも思える。

ひとつの究極の愛に他ならない。



『レ・ミゼラブル』

ゴールデン・グローブ賞も受賞し、いよいよ盛り上がっているミュージカル映画『レ・ミゼラブル』をやっと鑑賞。

今回は、初めての舞台版完全映画化ということで、キャスト・スタッフとも、現在考えうる最高のチームが結集した。

物語は、民衆の貧困と革命に揺れる19世紀のフランスが舞台。

パン1個を盗んだ罪で19年間服役し、仮釈放されたジャン・バルジャン。
盗みを司教から許されたことをきっかけに生まれ変わり、真の善人として生きていく決心をする。

数年後には、市長に上り詰めるものの、自分の過失で一人の女性・ファンテーヌを図らずも娼婦にまで追いやってしまったことを知り、彼女の遺児コゼットを引き取って育てる。

ヴィクトル・ユゴーの壮大な原作は読んだことはないのだが、映画で明確に描かれるのは、赦しの物語である。

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主役を演じたヒュー・ジャックマンとアン・ハサウェイの熱演についてはあえて語るまでもない。
それより、自分は敢えて、ラッセル・クロウ演じる警官ジャベールとサマンサ・バークス演じる酒場の娘エポニーヌの生き様が気になってしょうがない。

ジャン・バルジャンを生涯かけて追い続け、逮捕することに執念を燃やしたジャベール。
ついにジャンの慈悲に触れることによって、自分の信念が誤っていたことに気づき、最後は自ら命を絶つ。
一方、コゼットの恋人マリユスに報われない愛を捧げるエポニーヌは、それを伝えられぬまま、銃弾に倒れる。

憎しみを捨て愛すること、他人の過ちを赦すこと、無償の愛など、それらはかなり宗教的な意味合いが濃く、一歩間違えば説教くさい、陳腐な啓蒙物語に終わりそうなものである。
ジャベールやエポニーヌ、そしてファンテーヌの報われない人生の暗闇が描かれるからこそ、ジャン・バルジャンの放つ光はより一層輝いてみえるのである。

”I Dreamed A Dream”は、この歳になって聞くとまた格別だ。

 

窪美澄『ふがいない僕は空を見た』

現在、映画が公開中の原作小説を読んだ。

5編の連作からなり、冒頭の『ミクマリ』に登場する4人の脇役たちが、残り4編でそれぞれ主人公となる。

他人の目に映る姿と、当人の本当の姿はこうも違うものなのか、という普段忘れがちで当たりまえの真実が、見事に浮かび上がるのは、連作という構成以上に、著者の筆力によるところが大きい。

読み終えて思うのは、人は誰もが、他人が思っているほど不幸でも幸せでもないのかもしれない、ということだ。

『ミクマリ』の主人公は、高校一年生の斉藤。
年上の主婦あんずと不倫している。
斉藤の周りには、自宅で助産院を営む母、クラスメートの福田、斎藤に思いを寄せる松永。

アニメのコスプレをしながら繰り広げられるセックスの過激な描写とは裏腹に、揺れ動く不安定な斉藤の姿は純粋でみずみずしく、どうしようもない切なさに満ちている。

タイトルの「ふがいない」という言葉、また文中に頻繁に出てくる「やっかいなもの」など、今の生きづらく、行き詰った空気感を形容する言葉の数々に、著者独特の感性が垣間見えた。

しかし、それら後ろ向きで捉えどころない言葉が象徴する物語の根底には、それでもなお生きることへの愛おしさが流れている。

「つまり、いいことも長くは続かないということね。悪い出来事もなかなか手放さないのならずっと抱えていればいいんです。そうすれば、オセロの駒がひっくり返るように反転するときがきますよ」

神社で手を合わせる助産婦の母親は、何を祈っているのかと息子に問われて、こう答える。

「もちろんあんたも。ぜんぶの子ども。これから生まれてくる子も、生まれてこられなかった子も。生きている子も死んだ子もぜんぶ」

誰もがふがいなく、しんどそうで、苦笑いしつつ、様々なものを抱えて生き続けていくことの先に、もしかして何かがあるのかもしれない、そんな祈りにも似た思いが伝わってきた。

5人の主人公とは別に、『セイタカアワダチソウの空』に出てくる田岡という男が忘れられない。

「そんな趣味、おれが望んだわけじゃないのに、勝手にオプションつけるよな神さまって」

抗え切れない自分の性的指向によって破滅の道を歩む、田岡の人生のふがいなさは、おそらくこの小説で最も救いがないかもしれない。