想元紳市ブログ

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伏見憲明『百年の憂鬱』

伏見憲明著『百年の憂鬱』はゲイの恋愛を描いた私小説である。

糖尿を患う47歳の中年作家・義明と、21歳のハーフ、ユアンの恋を縦糸に、100歳を迎えようという伝説のゲイバーママ、松川の人生を交差させる。
見えてくるのは、単なる恋愛模様ではなく、ゲイの生き方についての問題提起である。

義明には20年来のつきあいになるパートナー、忠士がいる。
恋愛感情などひとときだけの熱情にすぎないと悟っていて、実際、義明はそれを成熟した大人の分別だと信じてやまない。
結果、強烈な愛情と束縛を求め、嫉妬に苦しむユアンと何度なく衝突する。

「自分を見失わない程度に彼を愛することで、その愛を勝ち得ようと唇をかみしめた」

一過性の情熱にすぎない恋愛と、パートナーシップという永続性のある関係の、どちらが人生においてより大事なのか、二つはどうやって共存しうるのか、というのは、おそらく著者のライフワークであり、ゲイリブの香りもそこはかとなく漂っている。

終盤、ついにユアンから別れを切り出された義明は、初めて我を忘れて取り乱し、無様なまでに追いすがる。
自分から決して口にはしまいと思っていた「愛している」という生々しい言葉すら、思わず吐き出してしまう。

「よほど彼のほうが大人だったが、捨てられようとする年配者は冷静ではいられない。なぜなら、彼はそのときになって初めて、恋に落ちたのだから」

大人の分別と経験で、冷静に、ロジカルに接してきた義明の正体が、初めて露わになった瞬間だ。

ところが、その一時間後、義明はあっさりと長年のパートナー忠士の「打ち水のような愛」を欲し、彼に会いに行こうと立ち上がる。

結局、義明は、慣れ親しんだ長年のぬるま湯に、逃避しようとしているだけのようにも思える。
あるいは、燃えるような恋を全く諦めていないどころか、強烈に渇望している本心を覆い隠し、自己を欺いているだけではないか。

根底にあるのは老いと孤独への恐怖だ。

中年時の失恋以後深い恋愛を放棄し、一人孤独と人間不信と憂鬱のうちに100歳で死んだ松川さんの人生に、義明は、自分の未来の姿を怯えつつも重ねて見ているのである。


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川上未映子『すべて真夜中の恋人たち』

川上未映子著『すべて真夜中の恋人たち』は、一人の女性の孤独を描きながら、不思議と爽やかな読後感を与える長編である。

テーマは「ひとり」ということ。

「もうずいぶん長いあいだ、わたしはいつもひとりきりだったのだから、これ以上はひとりきりになんてなれないことを知っているつもりでいたのに、わたしはそこで、ほんとうにひとりきりだった。こんなにもたくさんの人がいて、こんなにもたくさんの場所があって、こんなにも無数の音や色がひしめきあっているのに、わたしが手を伸ばせるものはここにはただのひとつもなかった。わたしを呼び止めるものがただのひとつもなかった。過去にも未来にも、それはどこにも存在しないのだった」

主人公の入江冬子は30代半ばのフリーランスの校閲者。
人間関係にも、恋愛にも極めて奥手で、男性経験は高校三年のとき同級生から強要されたのが最初で最後だ。
精神的にはひきこもりの状態に近く、楽しみは誕生日の夜に散歩すること。
流されるままに生きてきた人生だと思っている。

「わたしは自分の意思で何かを選んで、それを実現させたことがあっただろうか。何もなかった。だからわたしはいまこうして、ひとりで、ここにいるのだ」

編集者や昔の同級生など、自我の強い女たちが入れ替わり現れては、これこそが正論とでも言うように持論を饒舌に語るのだが、結局、冬子の人生にささやかな光を灯すのは、カルチャーセンターで出会った三束さんという冴えない58歳の男性。
物理の教師で、たまに喫茶店で光や音楽の話をする程度の関係だ。

それでも、冬子は、次第に三束さんのことが、頭から離れなくなる。
プラトニックな恋愛とも呼べない代物で、二人の間の距離は、遠く離れたままであったとしても。

そんな冬子に、ある日、ある言葉が唐突に思い浮かび、思わず書き留める。

「すべて真夜中の恋人たち」。

間違いを探すためには物語を決して読み込んではならない、とする校閲の仕事。
他人の言葉や文章の間違いを探すだけだった生活に、ふいに赤ん坊のように、自分の言葉が生まれ出た瞬間……。

「わたしは光に照らされた自分の文字をみて、こんなふうに誰かの原稿でもゲラでも何でもない場所に、目的のない、何のためでもない言葉を書くのは、はじめてだと思った」

なんと、澄みきった、鮮やかな冬子の目覚めであろうか。


『かぞくのくに』

25年ぶりに北朝鮮から一時帰国した兄を、両親と妹が迎える。
兄は、16歳のとき、帰国事業で一人移住したのだ。
病気の治療を理由に、今回、3カ月だけの特別な許可が出たのである。

家族4人で久しぶりに囲む食卓。
一見、母や妹ははしゃいでいるように見えるが、どこか微妙な空気が流れていて、ぎこちない。
兄は北朝鮮に妻と幼い息子を残しての帰国であり、家の外には同行してきた監視員が見張っている。
さらに、兄の移住の背景には、どうやら朝鮮総連系の仕事をしている父の思惑があったことなどもわかってくる。

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非常に重々しいテーマであるばかりか、画面も空気も終始どんより暗い。
それでも、ヤン・ヨンヒ監督の実体験に裏付けられた強いメッセージに、ぐいぐい引きこまれざるを得なかった。

それぞれが重荷を背負いつつも、あからさまに語ることのできない、家族4人の演技はみな素晴らしい。
監督の分身である妹を演じた安藤サクラの演技は、明らかに主演女優賞級の出来だ。

また、印象的だったのが、宮崎美子の演技である。
演じた母親像は、まるで在日のオモニそのものであり、正直、こんなにうまい女優だとは知らなかった。

兄は妹と買い物に出た先で、リモアのスーツケースが気に入る。
「これを持って、世界中を旅すればいいよ」と妹に買ってやろうとするのだが、値札を見て慌てて店を飛び出す。

この場面の意味が、ラストに繋がる。

突然北朝鮮からの指令で、滞在が打ち切られ、即刻の帰国命令が出る。
どんなに悲しもうと、兄も、家族もそれを受け入れるしかない。
兄を見送るときの、安藤サクラの演技が秀逸だ。

残された妹は、突然ベッドから飛び起き、家を飛び出す。
リモアのスーツケースを買うために。
買ったリモアを引いて、街の雑踏を歩く妹の姿。
それは、自由を奪われた兄に代わり、自由な世界で自由に生きてやろうという強い決意の現れであろう。

そうは思っても、エンドロールを迎える気持ちはやはり重い。
物語の舞台は1997年の設定だが、15年たった今も、あの国の状況はなんら変わっていないからである。

 

『ウィークエンド』

青山スパイラルで開催中の東京国際レズビアン&ゲイ映画祭で、イギリス映画『ウィークエンド』を観た。

ゲイクラブで出会った行きずりの男。
二日間を一緒に過ごし、濃密な時間を共有するうち、二人の間に特別な感情が生まれる。

ドキュメンタリーかと見紛うような、リアルで自然な二人を見ているうちに、他者と出会い、好きになり、それがさらに深い感情に変わっていくプロセスが、あまりにせつなくて、胸が苦しくなった。

ラッセルは、孤児として施設で育った経験から、本物の労わり合う愛を探し求めている。
一方のグレンは、おそらく過去の手痛い失恋から、特定の恋人などいらないと思っている。

そんな不釣り合いな二人だが、心の奥深いところで求めているのは人との温かなつながりであることは間違いなく、そのコアな部分が触れ合ったとき、二人は恋に落ちる。

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ゲイであるなら、どちらの感情にもどこかしら共感を覚えるにちがいない。

出会ったばかりの男を酔っぱらった勢いで家に連れ込むこと、翌朝の気恥ずかしさ、コーヒーだけ飲んで帰る後ろめたさ、一人残される寂しさ、戸惑いながらの連絡先の交換、かかってくる電話を待つ時間、せめぎあう期待と失望など、揺れ動く些細な感情を映し出したシーンの数々が、あまりにリアルで切ない。

とりわけ、帰るグレンの小さな後ろ姿を14階の部屋の窓からじっと眺めるラッセルの視線は、ゲイみんなの視線である。

こうやって何人の男の背中を見送ってきただろう、という思い――。

この映画、ストレートの人はどこまで共感しうるだろう、と考えたりもしたが、やはりゲイ特有の孤独感を知っているのとそうでないのとでは、随分感じ方は違ってくるだろうと思う。

グレンは既に家族にカミングアウトしているが、家族のいないラッセルには、当然経験がない。
最後の朝、ベッドの上で「じゃあ、俺を父親だと思って、カミングアウトしてみろ」とグレンが言う。

ラッセルの真面目な告白に対し、父親のふりをしたグレンが返すセリフが胸を打つ。

「お父さんは気にしない。月に行った息子を持つよりも、むしろ今のお前を誇らしく思う」

まさしく、ゲイが、生涯で最も聞きたい言葉の一つであろう。

アメリカに旅立つグレンを、駅まで見送るラッセル。
「なんとかうまくいくさ」とグレンは言うが、意味するところはよくわからない。
少なくとも、現実はそううまくは進まないことを、二人も、見ている我々もみな知っている。
寂しく、ゆえに愛おしい瞬間である。