想元紳市ブログ

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『幸せな哀しみの話』

「幸せな哀しみ」とは、成熟した大人の感情である。
本アンソロジーに収められているのも、まさにそんな大人の味わいに満ちた作品ばかりだ。

選者は何冊かアンソロジーを出版している山田詠美。
セレクションはもとより、山田自身による解説を読むのが楽しみである。

中上健次、遠藤周作、八木義徳など、山田お馴染みの作家の他、初めて読む、前衛芸術家・草間彌生の小説もあった。

『クリストファーの男娼窟』は、草間の作り出す、性的暗喩に満ちたオブジェの世界を彷彿とさせる文体と雰囲気に酔いしれた。

ニューヨークの有名なゲイタウン、クリストファー・ストリートに生きる、黒人の美しい男娼ヘンリー。
ヘンリーを買った白人男性のグリーンバーグ、男娼を斡旋する中国人の女ヤンニーとの関わりを中心に、哀しみに満ちた夜の花の煌びやかだが儚い輝きを、美しくも残酷に切り取った短編だ。

「隠花植物にも似た人々がうごめくこの場所で、わずかな光によって最大限に自分をきらめかせる、宝石のような存在だ。(中略)私は、ひとりの男娼を、こんなにも美しく哀切に描いた小説を他に知らない」(山田)

河野多惠子著『骨の肉』は、男に捨てられ一人残された部屋で、男との官能的な時間を反芻する女の話だ。
彼女が思い出すのは、決して肉体的な情交ではなく、一緒に生牡蠣や骨付き肉を食べた記憶である。

「食べるという日常の行為が、小説のエロティシズムの魔法によって、ほの暗い非日常へと変わって行く。そこに遺された骨と殻の残骸の中で、やはり女は、幸せで、哀しい」(山田)

本アンソロジーの中にある「幸せな哀しみ」は、マスメディアを通じて巷に氾濫した、あまりにわかりやすい哀しみ、優しさ、薄っぺらい幸福とは真逆のものである。


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『ファミリー・ツリー』

ジョージ・クルーニー主演、ハワイを舞台にした、どこかロードムービーのような味わいの映画である。

彼が探すのは、食い違った家族の愛の在りか、そして自分自身である。

突然のボート事故で昏睡状態になり、ゆっくりと死に向いつつある妻。
今まで仕事一筋で、家庭を省みなかった夫のマットは、反抗的な二人の娘との日常に戸惑い、はては妻が不倫し、自分との離婚を望んでいたことを知って、激しく動揺する。

右往左往し、苦悩するマットの姿は、無様で情けないほどに滑稽だ。

長女の彼、次女の友達、妻の不倫相手やその妻など、周囲の人物たちもみなどこか奇妙で可笑しく、彼らの不思議な存在感も相まって、死で始まる物語だというのに、悲劇とは感じられないさらりとした空気が流れている。

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壊れた家族に向き合う中年男の悲哀と同時に、もう一つ別の物語が展開する。

マットは、実はハワイ王室の血を引く名門の資産家一族。
カウアイ島に、先祖代々引き継がれてきた広大な、美しい土地を所有しているのだが、大資本のディベロッパーにまさに売却しようとしているのである。

終盤、二つの物語は、見事に一本の流れに収束する。

土地の売却は、延々と流れてきた家族の絆を断ち切ることを意味していることに気づいたマットは、いよいよ妻の臨終に直面し、そこから家族の尊さと、さらにはゆるぎない自分の愛を見出そうとするのである。

妻の不倫相手が、土地の売買をする不動産の仕事、というのも何やら暗喩めいている。

いわば、ハワイの美しい大地の存在こそが、マットに再生の糸口を与えたのだと言えようが、物語の根底には、この島独自の自然崇拝にも似た、スピリチュアリズムを読みとることもできる。

妻の遺灰を、小さなボートから透き通った海に撒く、マットと娘二人。

その行為の意味するものは、人間一人の生とは、偉大なる自然の中のいっときの風に過ぎず、死と共に再び自然に還るだけなのだという死生観であり、その点にこそ、ハワイを舞台にしていることの、大切な意味があるように思うのである。

 

『ティファニーで朝食を』

知名度は抜群ながら、実際観た人は意外に落胆するケースが多いと聞く、この映画。

カポーティの原作とは別物だし、ありきたりな恋愛物だと言われてしまうのを重々承知してなお、自分は大好きである。
洗練された、ロマンチック・コメディーの名作だと思う。

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ヘンリー・マンシーニの『ムーン・リバー』が流れる、夜明けのニューヨーク。
人一人いない五番街に、一台のタクシーがやってきて、ティファニーの前で停車する。
下りてきたのは黒のジバンシーをまとったオードリー・ヘップバーン。

このオープニングシーンの素晴らしさ。

そして、始まるのは、猫と犬の物語である。

主人公のホリーは高級娼婦を生業にしながらも、自由を謳歌し、束縛を嫌う猫。
同じアパートに越してきた作家の卵ポールは、富豪マダムに仕える従順なヒモ、つまり犬。

二人がデートで訪れたウールワースで万引きするのは、それぞれ猫と犬のお面だ。

そんな猫と犬が恋に落ちる。

ポールは長い間手つかずだった執筆に取り掛かり、マダムとも縁を切る決心をするが、一方のホリーはなかなか本物の愛に飛び込めない。
大金持ちとの非現実的な結婚話や、自由気ままな遊びを楽しんでいるように見えて、実は深い孤独のケージの中に閉じこもっているのである。

ラストシーンも、街を走るタクシーで始まる。
後部座席に並んで座るホリーとポール。
破綻したブラジル人富豪との結婚に未だすがろうとするホリーは、大切な飼い猫すら、雨の車外に放りだしてしまう。
ついに愛想をつかしたポールは、ひとりタクシーを下りる。

「君は自由というものに固執しているように見えて、実は自分で作った檻の中に逃げているだけだ。世界のどこに行こうと、結局はその檻に逃げ込むんだ」

そう言われ、車内にひとりになって、ついにホリーの目が覚める。

激しく打ち付ける雨の中、二人は猫を探す。
諦めかけて、やっと見つけ出し、小さな木箱の中から猫を表に出すというホリーの行為は、彼女自身の成長と目覚めを見事に象徴するのである。

 

『悲しみよこんにちは』

フランソワーズ・サガンの原作は何度か読んでいるが、1957年の映画は観たことがなかった。

南仏の別荘でひと夏を過ごす、男ヤモメの父レイモンと18歳の娘セシル。
二人にはそれぞれアバンチュールを楽しむ恋人がおり、怠惰で気楽な生活を満喫しているところに、父の友人で聡明な大人の女アンヌがやってくる。
やがてアンヌと父が婚約することから、今の楽しい自堕落な生活が終わるのを恐れたセシルは、ある残酷な計画を実行に移す。

映画自体は、正直、50年代の安いメロドラマの匂いが漂い、決して成功しているとは言い難い。
そもそも、アメリカ映画で、みな英語を話すという時点で興覚め。

フランス本国がリメイクすればいいのに、と思ったりもするが、一度も実現しないのは、相応の理由があるからに思えてきた。

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なんといっても、セシルを演じたジーン・セバーグの輝くばかりのカリスマ的魅力。

本作でデビューし、翌年には『勝手にしやがれ』で世界的スターに。
ところが、その後は作品に恵まれず、スキャンダルにまみれる中、40歳で自殺する。
まるでセシルのその後の人生を推測したくなるような不幸な半生を送ったセバーグ。

さらに、セシルと同じ18歳で本処女作を発表したサガンの、波乱に富んだ人生も、何やら切り離して考えることができない。

セシル、サガン、セバーグが、まるで一人の女性のような錯覚に陥ってしまいそうになり、そのことが、この映画に犯さざるべき数奇な聖域のようなものを作りだしてしまったように思うのだ。

原作はこう始まる。

「ものうさと甘さとがつきまとって離れないこの見知らぬ感情に、悲しみという重々しい、りっぱな名をつけようか、私は迷う」

名付けられた悲しみとは、物語の中でセシルが否応なく向き合わねばならない感情である。
と同時に、本作によって一躍名声を得たサガンとセバーグが、実生活でその後に背負うことになる悲しみと、見事に重なって見えてくるのである。

 
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