想元紳市ブログ

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『スカーフェイス』

1983年のアメリカ映画『スカーフェイス』。

監督ブライアン・デ・パルマ、脚本オリバー・ストーン、音楽ジョルジオ・モロダー、主演アル・パチーノ。
当時、脂の乗り切った一流のスタッフがそろった。

舞台は1980年のマイアミ。
カストロの融和政策により、キューバから移住してきた貧しい青年トニーが、麻薬取引の裏社会で、一気にのし上がり、破滅していく物語だ。
描かれるのは、自分以外の他人を信じることができなかった男の悲劇である。

しかし、トニーの生き方は、その不器用さゆえに、抗いがたい、不思議な魅力を放っている。

高級レストランで妻のエルビラと大喧嘩したあと、回りの客に向けて悪態をつく。

「お前らはみな腰ぬけだ。何食わぬ顔で、おれのような人間を指さして、こう言う。『あいつは悪党だ』と。
そういうお前らは何だ? 善人か? 笑わせるな。何食わぬ顔でウソをつく。
おれはそんなことはしない。おれはいつも真実を話す。ウソをつくときもだ」

妻のエルビラを演じたのが、ミシェル・ファイファー。
自分の弱さから、権力と富と薬に頼らざるを得ない、寂しい女である。

同じアル・パチーノ主演の『ゴッドファーザー』が、同じく裏社会を描いて見事に芸術的な高みまで到達したのに対し、本作はその俗っぽさにおいて、特異な世界観を完成させたと思う。

成り金と悪趣味を極めた部屋の調度品、巨大な金のジャクジー風呂、サンセット柄の壁紙、どぎつい原色のネオンなど、チープさの極致が素晴らしい。

トニーとエルビラは、そんな世界で輝く男と女である。
似た者同士の二人は、磁石のように魅かれあい、そして堕ちていく。

他にもラスベガスを舞台にした『カジノ』など、自分はこんな破滅の物語が大好物である。

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光浦靖子・大久保佳代子『不細工な友情』

人気女芸人オアシズの二人、光浦靖子と大久保佳代子の往復書簡エッセイである。

軽く流すつもりだったが、なんとも骨太で、働く30代独身女性の本音と戸惑いを綴った読みやすい文章に、舌を巻いた。

お笑い芸人には、文章を書かせても、演技をさせても、本職顔負けの達者な人が多い。
彼らは、自分をさらけ出すということにおいて、全く躊躇がないからだと思う。

小学校から幼馴染の二人。

親のこと、恋愛のこと、ファッションのこと、芸能界のこと。
どんな子供時代だったか、どうやって思春期を過ごしたか、東京に出てきてどう感じたか。
18のとき同じように田舎から東京に出てきた自分を重ねて、思わず共感してしまう点も多々あった。

そして、婚期を少し過ぎた、働く独身女の素直な思い。

「オシャレもお金があってのことです。ブランドのバッグを欲しいと思う年頃。日々、将来の不安と、現在の欲求の間で揺れています。
小銭持ちの大久保さん、お嫁さん貯金は貯まりましたか?
私たちの未来はどっちのレールに乗るのでしょう?
今、使っていいのか? 貯めるべきなのか? 悩みませんか?」

5年前の本である。
おそらくその頃はまだ、光浦の人気が先行し、OLと二足のわらじだった大久保は今一つマイナー感があったときだろう。
今や二人とも、TVで引っ張りだこの人気者。
しかし、二人の立ち位置は当時とあまり変わらないような気がする。

早くにコンビを組みながら、どうして光浦だけがピン芸人的に仕事をしていたのか、驚きの理由も、さりげなく最後に曝露される。


『ネットワーク』

フェイ・ダナウェイの代表作の一つ『ネットワーク』。

視聴率競争に翻弄される、アメリカのTV業界の内幕と、テレビ局で働く人々の風刺に満ちた狂騒劇。

視聴率のためなら手段を選ばない、冷酷な敏腕プロデューサー、ダイアナを演じたのがフェイ・ダナウェイだ。
彼女に利用されるキャスターをピーター・フィンチ、プロデューサーで、ダイアナの不倫相手でもあるマックスを演じたのがウィリアム・ホールデン。

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1976年の映画で、来るべきTVメディアのモラルの退廃を予見したとも言われる本作。
今のTVの状況を見ると、さらに巧妙に悪化しているように思える。
インターネットという新しいメディアの台頭が、状況を加速させていることは言うまでもない。

そうした、社会派ストーリーと並行し、本作のもう一つの見どころは、ダイアナという女の人間性、さらにマックスとの恋愛ドラマにある。

マックスは妻子を捨て、ダイアナと同棲するに至るも、半年で破綻する。
仕事が全てのダイアナに対し、二人の関係を大切したいマックス。

家を出るとき、マックスがダイアナに残す言葉が痛烈だ。

「これはハッピーエンドだ。浮気亭主は我に返って、妻のところに戻る。ともに愛を紡いできた妻だ。無情な若い女は極北の地に一人残される。エンディングの音楽が流れ、続いてCM、そして来週の予告」

「周囲の人間を破壊する人型ロボット」とまで罵られたダイアナ。
しかし、本当は、本人すら気づいていない、あまりに不器用な脆さを内に秘めているのだ。
おそらく、一度は愛し合った、マックスだけがそれを知っている。

マックスが出ていくとき、平然とコーヒーカップを手にしたダイアナだが、実は体の震えをおさえることができない。
一瞬垣間見せた動揺すら、毅然と振り切るかのように顔を上げるフェイ・ダナウェイの演技が素晴らしい。

彼女が仕事のときに着る様々なシルクのブラウス、パーティーで着る白のカクテルドレスが、今見ても、随分斬新で洗練されているのは、まさにフェイ・ダナウェイが持っていたスタイルが紛れもない本物だったということだろう。


村上春樹『1Q84』

未読だった村上春樹の『1Q84』Book1とBook2を読んだ。

発売当初のマスコミの異様な熱狂ぶりになんだか引いてしまい、しばらく距離を置いていたのだった。

読み始めたきっかけは、書店でみかけた、本書のUK版とUS版ハードカバー、それぞれの装丁があまりに美しかったからである。
UK版では1Q84年の象徴的なモチーフである二つの月を、US版ではトレーシングペーパーの薄いカバーの向うに男女の顔が透けて見えるという、実に凝ったものだった。

読了後、真っ先に思い出した一節がある。
村上が愛し、翻訳も手掛けたレイモンド・カーヴァーの短編『足もとに流れる深い川』にある、この一節。

「過去はぼんやりしている。古い日々の上に薄い膜がかぶさっているみたいだ。私が経験したと思っていることが本当に私の身に起こったことかどうかさえよくわからない」

本作の読後感も、まさにこの感覚だ。
複雑な、不可思議な世界に翻弄される心地よさとでも言おうか。

1984年と1Q84年という、パラレルな二つの世界にまたがる、天吾と青豆、二人のラブストーリーであると同時に、人間の知覚や意識の脆さ、時間の不確かさを描いた哲学書のようでもある。

「私たちは自分で選んでいるような気になっているけど、実は何も選んでいないのかもしれない。それは最初からあらかじめ決まっていることで、ただ選んでいるふりをしているだけかもしれない」

村上流のスピリチュアル本として読むことも可能かもしれない。

終盤の第23章と24章は、長編を読み進めてきたものにとっては至福の、心を揺さぶられるような感動を覚えるはずだ。

特に、青豆が物語の最初の首都高速のタクシーの中に戻る描写がいい。
青豆を映画『華麗なる賭け』のフェイ・ダナウェイに例える、さりげない俗っぽさは、実は村上作品らしさでもある。

結局、読み終わっても、どこまでが現実でどこまでがフィクションなのか、何が原因で何が結果なのか、深い森の中に取り残されたままだ。

Book3は、またしばらく時間をおいてから読むことにしよう。