想元紳市ブログ

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『赤い靴』

1948年公開の名作『赤い靴』のデジタルリマスターを劇場で観てきた。

2年の歳月をかけた、デジタル化の監修を行ったのは、この映画を敬愛しているというマーティン・スコセッシ監督。
なんとも魅力的な、新しいポスターを見て、観逃してはならないと思っていた。

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新人ダンサー、ヴィクトリアが、バレエ団団長に見出され、アンデルセンの童話を元にした新作バレエ『赤い靴』のプリマに抜擢される。
作品は成功し、一躍スターになるヴィクトリアだが、作曲家と恋に落ちたことから悲劇の道を歩む。

昔、この映画を観るまで、『赤い靴』の物語を、てっきり異人さんに連れられていった少女の話だと勘違いしていた自分。
アンデルセンの童話は、赤い靴を履いてしまうと踊り続けなくてならないという、ある意味、異人さんに連れられていくよりも、恐い物語である。

なんといっても、劇中劇『赤い靴』の踊りの素晴らしさ。

例えば、主人公の足に、赤い靴がすっぽり収まる瞬間のワクワクするような感動。
そして、その後に続く、夢のような踊りの数々は、ただうっとりと浸ってしまうばかりである。

現代のリアルなCG映像ではないが、少しも古臭さを感じないのは、いかに芸術性に優れたものであるかの証だ。

まさしく、舞台芸術と映画の完璧な融合。

フィクションであるはずの『赤い靴』の物語が、ヴィクトリアの人生と重なり、境を失い、悲劇的結末へと突き進んでいく。

芸術に生きることの厳しさと、そこから逃れられずに起こる悲劇は、その後、例えば『ブラック・スワン』などでも繰り返し描かれるテーマとなる。

 
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『流れる』

浮雲』と並んで、成瀬巳喜男監督の代表作の一つ『流れる』。

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東京を代表した花街、棚橋にあった一軒の置屋を舞台に、芸者たちの悲哀が淡々とした日常の中に描かれる。

この置屋の経営は、実は借金だらけで火の車。
芸者たちの、男をめぐる哀しい裏の顔も明らかになり、それらが、時代の流れで凋落し始めた花街の姿に重なっていく。

女たちを、当時の日本映画を代表する名女優が演じ、さながらオールスターキャストの趣だ。

女将を山田五十鈴、芸者を嫌っている一人娘を高峰秀子、年増の芸者が杉村春子、若手芸者を岡田茉莉子、職業安定所の紹介でやってきた女中が田中絹代。
さらに、女将の姐御に日本映画界初の伝説的大女優、栗島すみ子が久しぶりのカンバック、友情出演という豪華さである。

これだけの女優が、ほぼ密室劇の形で、演技合戦するのだからたまらない。

とりわけ、山田五十鈴の気品ある美しさと、気高い演技に目を見張った。

また、したたかだが情に深い芸者をコミカルに演じた杉村春子。
酔っぱらった杉村と、気の強い高峰が口げんかする場面は痛快ですらある。
男に振られ、置屋も辞めるという杉村に、出てけと啖呵を切るのが高峰だ。

「涙は出るけどね、これはあんたのお見事なご挨拶に泣いたんじゃないんですよ。人を恋しいと思って泣く涙……男知らないあんたなんかにわかるもんか!」

「男を知ってるってことがどうして自慢になるのよ」

「大変なことおっしゃいましたよ、このお嬢さん……女に男はいらないって本当ですか?ねえ、おねえさん」

華やかで、気の強い芸者たちの中にあって、女中だけは、ひたすら従順で優しい、地味な存在である。
明らかに損な役回りをどうして田中絹代が、と思っていると、終盤、実に見事に女中の立ち位置が浮かび上がってくる。

借金を返すために家を売り、心機一転やり直そうと張り切る女たち。
しかし、それが束の間の慰めにしかすぎないことを、唯一知っているのが女中なのだ。

撮影現場は、19年ぶりにカンバックした栗島すみ子が、貫禄のふるまいをし、相当緊張に満ちたものだったらしい。

下町の粋な女たちが纏う着物や浴衣の美しさも、必見だ。


橋口亮輔『無限の荒野で君と出会う日』

友人に薦められ、映画監督・橋口亮輔のエッセイ集『無限の荒野で君と出会う日』を読んだ。

少々気恥ずかしくなるタイトルだが、内容は、日頃考えていることや感じたことを気取らず綴ったもので、共感する点も多かった。

「幸福って何だろう? 満たされるってどういうことだろう? 愛って何だろう? 家族って何だろう?」という普遍的な問いを、何かにつけ考えること。

思えば、このブログで書いていることも、そのことにつきるかもしれない。

自分は橋口亮輔という人に、とても興味を持っているのである。
同世代のゲイであるという以上に、自己の内面に深く萌した映画製作、高い評価を受けながらも実に寡作なこと、鬱病など個人的なことを含めて、興味をひかれる。

本書は、1993年から2004年に雑誌等に掲載されたものに、書き下ろしを加えたもの。
作品で言うと『二十歳の微熱』発表後から、『ハッシュ!』発表後までの10年間にあたる。

荒野で探している「君」とは、もちろん単に恋人のことを指しているわけではない。

「人はひとりという境界を越えていく。命をかけてでも、そこに何かあると信じるからだ。“何か”とは、自分に欠けている何か。生きていると実感させてくれる誰かの体温。世界を一変させてくれる誰かの言葉だ」

まさしく彼の作った全作品に共通したテーマではなかろうか。

本書発行後、鬱の克服など、さらに数年を経て、やっと2008年に新作『ぐるりのこと』を発表する。
その間の数年、そして、今考えていることなども知りたいと思うのだが、作った映画を見てくれ、と言われそうだ。
久しぶりに、過去の作品を観直してみようかと思う。

アメリカ映画『小説家を見つけたら』の中に、好きなセリフがある。

「自分のために書いたものは、人のために書いたものよりもすぐれている」

まさに、この通りの理由で、『ぐるりのこと』は、同年の『おくりびと』より断トツに秀でた映画だと自分は思っている。


『ベニスに死す』

銀座テアトルシネマにて上映中の『ベニスに死す』ニュープリントを堪能。

マーラーの交響曲第5番が流れ、ほんの微かに明るみ始めた夜の海を、黒い汽船がゆっくりと進むオープニングから、一気に叙情的な官能の世界の虜である。
風に揺れるストライプのビーチタオル、ホテルのロビーに活けられた紫陽花の花が、これほど美しいと思えるのは、ヴィスコンティの魔力以外の何物でもないだろう。

20数年ぶりに観たのだが、若い時はいかに表面的にしか観ていなかったか、ということ。
そして、当時は少年タジオの年齢に近く、間違いなく今はアシェンバッハの方に近いのだと思うと、愕然としてしまう。

それゆえか、今回は、ホモセクシャルな主題よりも、むしろ芸術と人間の相克のドラマに心魅かれた。

高名な作曲家でありながら、自身の芸術に足りないものがあることを苦悩し続けてきたアシェンバッハ。
少年タジオの存在と、彼に対する自分の感情の中に、欠けていたものの本質を、ついに発見する。

自然の造った、絶対的な美との出会い。
忍び寄る自らの死の気配の中で、理性を捨て、恍惚と忘我の境地に身をゆだねることを選ぶのだ。

一方のタジオは、アシェンバッハが自分に向ける熱い視線の存在に最初から気づいている。そればかりか、わざと視線を絡ませたりする。
タジオも同性愛的資質を持っていたからか、それとも、自分の美しさを知っている者特有の残酷な遊びなのかは、曖昧なままである。

エンディング、タジオが日暮れの砂浜で見せるポーズも不可解だ。
振り向き、左手を腰にあて、右手をまっすぐ横に伸ばして、親指と人差し指で小さな輪を作ってみせる。

それは、タジオからアシェンバッハに向けた、ある種の肯定、受容の意志表示だったと見てとれる。
あるいは、アシェンバッハの願望が見せた幻だった、とも。

アシェンバッハは、命の最後の灯を燃やすようにデッキチェアから立ち上がり、タジオに近づこうとして叶わず、砂浜に息絶えるのである。

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アシェンバッハの印象的な言葉がある。

砂時計は、砂の落ちる道が狭く、最初はいつまでも上の砂が変わらずに見える。砂がなくなったことに気づくのは終わりの頃。それまでは誰も気にしない。時間が過ぎて気づいた時には既に終わっている。

アシェンバッハの死に様は、まさしくそんな死である。


『ブルーバレンタイン』その2

ブルーバレンタイン』をDVDで観直して、これはやはり今年のNo.1の映画かもしれないと思った。

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ディーンとシンディ、ごく平凡な一組の男女が出逢ってから結婚するまで、そして、結婚が崩壊していくまで。
二つの異なる時間が交差しながら進み、愛の成就と破局の瞬間が、ラストで見事に重なる。

「誰かの夫になりたかった訳じゃない。誰かの父になるのが人生の目標じゃなかった。
でもこれは俺が求めてた人生だ。気づかなかったが、他には何も望まない。大事なのは家族だ」

喧嘩し一度は草むらに捨てた結婚指輪を拾いに戻る二人。

二人がついに避けられない破局を迎える時、交わされる言葉の数々に泣いた。

大好きなシーンの一つが、二人の初めてのデート、夜の街角でダンスをするところ。

誰もいない深夜の路上、安っぽい洋品店のウィンドウの前で、ディーンがウクレレを弾きながら歌い、シンディがあわせてステップを踏んでみせる場面は、せつないまでに愛おしい。

それは、二人が出逢ってから別れるまでの年月のうちで、実はあのときが最も幸せだった、と後から振り返って初めてわかるようなひとときだったはずだ。
人は誰もが、過去の恋の封じ込めた記憶の奥に、そんな瞬間があると思う。

『巴里のアメリカ人』や『プリシラ』など、好きなミュージカルダンス映画はたくさんあるけれど、そういった映画ではない、忘れられないダンスのシーンのいくつかを紹介。

『レナードの朝』
奇跡の薬で30年の眠りから目覚めたレナードと、病院で出逢ったポーラの短い恋。
症状の再発を知ったレナードは、病院のカフェテリアでポーラに別れを切り出す。
既に硬直の始まっているレナードの手をとるポーラ。
白いシーリングファンの下、二人が静かに踊るシーンは優しさと哀切に溢れている。

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『フィッシャー・キング』
ホームレスのペリーが片思いしているのは、超地味で不器用なOLのリディア。
NYグランドセントラルステーションで、通勤途中のリディアが来るのをじっと待つペリー。
雑踏の中にリディアの姿を発見すると、巨大な駅構内が、妄想の中で、眩いばかりのダンスホールに変貌する。

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『ワイルド・アット・ハート』
殺人犯のセイラーと恋人ルーラの逃避行。
アメリカの広大な大地をオープンカーで走り抜ける途中、二人は車を下り、カーラジオのロックに合わせて、激しく下品なまでに踊り狂う。それが夕焼けの遠景の一部と化していくときの比類ない美しさ。

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