想元紳市ブログ

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『蜘蛛女』

1993年公開の『蜘蛛女』は、なかなか魅せるB級映画である。

狂気の悪女、モナを演じたレナ・オリンは、『危険な情事』のグレン・クローズ、『ミザリー』のキャシー・ベイツに匹敵する怪演ぶりだ。
猟奇性と滑稽さにおいては、一枚上を行くかもしれない。

自動車の中での死闘、その後、ハイヒールを脱ぎ捨て、がに股で逃げ去るモナの凄まじい姿は、一見の価値がある。

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とは言っても、主人公はあくまでゲイリー・オールドマン演じるジャック。
片田舎で寂れたダイナーを営む一人の男の、懺悔と悔恨に満ちた回想のドラマだ。

かつてジャックは、マフィアに情報を流し、その報酬で私腹を肥やしていた悪徳刑事だった。
愛する妻がいながら、若い愛人もいて、なかなかに要領のいい享楽的な日々。
ところが、モナという凶悪な女に関わったことから、血みどろの道に踏み込んでいく。

終盤、壮絶な死闘をなんとか生き延びたあと、束の間の平穏の中で、ジャックはこう思う。

「本当に経験する地獄は、空想の物とは違う。
業火や硫黄、悪魔などは空想の産物だ。
何が地獄か……。
肝心なことを見失っている時こそが、地獄だ」

彼の場合、肝心なこととは、愛する妻が自分の側にいてくれるということである。

モナの狂気ぶりばかりに圧倒されてしまうが、ジャックの物悲しい孤独と悲哀こそが、実は、この映画の肝だ。

妻と別れるとき、ジャックは涙を堪え切れない。

「愛が不安と背中あわせなのは、求めても与えられるとは限らないからだ」

妻を失ってからの時間の方が、彼にとっての本当の地獄なのである。


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西村賢太『苦役列車』

西村賢太の芥川賞受賞作。

無頼派を地で行く、徹底した私小説。
主人公は全て西村賢太自身という、圧倒的リアリティ。

どうしても本人の強面な容姿を想像しながら読んでしまい、小説の読み方として邪道ではないかと思わぬでもないが、それゆえの強烈な生々しさを伴うのも事実だ。

日雇い労働でその日暮らしをする19歳の貫多の自堕落で鬱屈とした生活。
そんな生活の中でも、貫多の、つまり西村賢太の自虐的ともみえるナイーブな繊細さが際立つ。

「かかえているだけでは厄介極まりない、自身の並外れた劣等感より生じ来たるところの、浅ましい妬みやそねみに絶えず自我を侵蝕されながら、この先の道行きを終点まで走ってゆくことを思えば、貫多はこの世がひどく味気なくって息苦しい、一個の苦役の従事にも等しく感じられてならなかった」

芥川賞の選考では、賛否両論あったようだが、山田詠美の選評がひっかかる。

「私小説が、実は最高に巧妙に仕組まれたただならぬフィクションであると証明したような作品」

徹底的に突きつめた私小説は、もはや「私」ではなくなるということか。

自分は表題作より、収録されたもう一編『落ちぶれて袖に涙のふりかかる』の方が好きである。

貫多は、既に40歳を越えており、小説を数編発表後、最新作が川端康成賞の候補になっているという境遇にある。

『苦役列車』では得体のしれなかった、自身の内側に巣くう膿が、ここでは作家として認められたいという具体的な渇望の形をとっている。

ぎっくり腰の激痛に悩まされながら、受賞したいと験担ぎまで仕出かす主人公の姿は、滑稽なほどだ。

19歳と40歳の間の空白は、『どうで死ぬ身の一踊り』など彼の他の小説で埋めることができる。


『海洋天堂』

ジェット・リー主演の中国映画『海洋天堂』。

物語の舞台は沿海都市の青島(チンタオ)で、主人公の職場は水族館だ。
まるで水中のような青みを帯びた画面など、どこまでもブルーに彩られた世界は、さながら仏映画『グラン・ブルー』のブルーを思い出させるが、本作のブルーはそれよりさらに澄んでいる。

自閉症の息子と末期癌の父親というと、暗くじっとりとした物語を連想しがちだが、本作から受ける印象は、透明感に溢れた無垢な優しさである。

ジェット・リーは、国際的なアクションスターのオーラを完璧に消し去り、どこにでもいる平凡な父親になりきった。
なんでも、脚本に感銘し、ノーギャラでの出演を受諾したのだという。

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冒頭、二人は足に重りを括りつけ、小舟から海に飛び込むシーンで始まるが、父に本当に心中の意志があったのかは甚だ疑問だ。

「魚に生まれていれば、幸せだったのに」と思うほど、息子は泳ぎに長けているのである。
本当に死ぬつもりなら、他に確実な方法を選べたはずだ。

普通の感情表現を持たない息子の、生への確かな執着を確認したかったのではなかろうか?

期待通り、息子は紐を解いて、心中は失敗に終わる。
それから、自分の死後、息子を受け入れてくれる施設探しが始まる。
同時に、バスの乗り方や卵の茹で方など、出来る限り自分一人で生活するための教育を施す。
ところが、行政の壁にも阻まれ、なかなか安心して任せられる施設は見つからない。

「どこかに息子の居場所があるはずだ」

近所で雑貨屋を営む女は、自分が面倒をみると言ってくれるも、父はやんわりと断る。
女の自分に対する好意から派生したものであり、息子に対する思いも同情の域を出ないことに気づいていたからだ。

息子は、サーカスでピエロを演じる若い女と心を通わせるが、それは彼女の中に、遠い記憶にある母親の面影をみたからであろう。

妻は、息子が7歳のとき、海で死んだ。
どうやら息子の病気と向き合う現実に耐えきれず、自ら命をたったらしいこと。

後半はやや甘たっるく、また、感傷的なヒューマニズムを煽る音楽は、少し饒舌すぎると自分は思うが、一方で、終始抑制された監督の演出には、実際に自閉症の施設で14年間ボランティアとして働いた実体験に裏付けられた真摯さが見て取れる。

最後は、息子が水中でしなやかに泳ぐ姿で終わる。
まさしく、そこが彼の居場所であり、横には父の分身が寄りそう。


『裸の島』

TVで放送していた新藤兼人監督の『裸の島』を観て、激しく打ちのめされた。

瀬戸内海に浮かぶ小島に住む4人家族の生活を、一切の台詞を排し、離れたところから、淡々と追い続けた実験的映画である。
モスクワ映画祭グランプリはじめ、多くの国際的な賞を受賞し、世界中で配給されたという。

1960年の製作、夫婦を演じたのは殿山泰司と乙羽信子。

台詞のない映画に2時間近く耐えられるだろうかと観始めたが、後半はひたすら涙。

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電気も水道もない周囲500メートルほどの小さな島に暮らす夫婦と子供二人。
山の斜面を切り開いて作った畑に、さつまいもや麦を植えて育てている。
離れた本土まで小舟を漕ぎ出し、水を入れた桶を運ぶのが、夫婦の日々変わらぬ仕事だ。
長男は小舟に同乗して本土の小学校に通い、次男は海に潜って遊んだりしているが、きちんと家事も分担している。

4人の生活は、人間の原点の姿である。
食べて、働いて、寝る。
移り変わる季節の中、過酷な自然と共存し、ただ毎日を生きていく。
原始的ともいえる生活に、生きるということの本質が鮮やかに浮かび上がる。

いかなる天気の日も、小舟を漕いで水を運び、それを抱えて急斜面を登り、渇いた土壌の畑に、ひたすら何度も水を与え続ける――。
その行為が象徴するのは、まさに人生そのものだ。

たまに家族で本土に出かけ、食堂で外食したり、ちっぽけな買い物をすることがささやかな喜び。
しかし、夏のある日、悲劇が起こる。
長男が高熱で急死するのだ。

その夜、島の高台から、本土の打ち上げ花火大会を茫然と見つめる妻の後姿を見ると、台詞など不要だとさえ思ってしまう。

質素な手作りの棺、喪服などない二人が着るのは普通の白いシャツと浴衣である。
本土からお坊さんと教師、同級生らが参列し、島の頂きで息子の火葬をする。

そして、翌日からは、再び生きるための仕事が待っている。
以前と変わらず、淡々と仕事をしているように見える二人だが、突然、妻は自ら水をぶちまけ、植えた苗を引き抜いて号泣する。
土にへばりつくように泣き崩れる妻。

普段は、誤って水をこぼそうものなら激しく妻を張り倒す夫が、このときは、ただ横でじっと見ているだけだ。

やがて、大地から立ち上がる妻の姿は、人間の逞しさを感じさせて、崇高ですらある。


『イヴ・サンローラン』

原題は『イヴ・サンローランとピエール・ベルジェ~狂おしい愛』。

これは、サンローランの伝記映画ではなく、公私に渡るパートナーであったベルジェが見たサンローランの姿と二人の愛の物語である。

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50年間、横に付き添い、最後を看取ったベルジェ。

若くしてディオールのデザイナーに抜擢され、「フランスの国宝」「モード界の帝王」と称されるに至るサンローランの表の功績より、むしろ、ベルジュが知る陰の部分にスポットがあたる。

精神的に脆く、過度に繊細で、鬱とプレッシャーから逃れるためアルコールとドラッグに走っていたこと。

サンローランが幸せに見えたのは1年に2回だけだという。
オートクチュールのショーが終わり、ランウェイで観客から喝采を浴びるとき。
その夜か翌朝には、再び苦悩の日々が始まる。

ベルジュが言う。

「名声とは、輝かしい葬列だ」

常に新しい美を創造していかねばならないデザイナーの宿命。

「火が灯されて、人々はやっと火の存在に気づく。芸術家がその火を灯すために、自らの体を焼け焦していることには全く気づかずに」

映画は、2002年のサンローラン自身による引退会見の模様に始まり、2008年の彼の葬儀とベルジェによる弔事へと続く。
その後はエンディングまで、二人が収集した膨大なアート・コレクションを全て競売に出す作業に沿って進む。
クライマックスは、パリのグラン・パレで開催されたクリスティーズによる盛大なオークションの模様だ。

ベルジュは答える。

「もし、自分が先に死んでいたら、イヴは収集したコレクションを手放すことはしなかっただろう」

しかし、ベルジェは手放すことを選んだ。
自分たちの宝の行方を見届けることができて幸せだと説明するが、その思いの深いところは、なかなか容易に読み取ることはできない。

最後も、海辺の別荘で、窓際に佇むベルジェがカメラに向かって振り向く姿で終わる。

結局のところ、このドキュメンタリーが伝えてくる、二人の愛の形は、驚くほど寡黙である。
神話を守ろうとするベルジュの強い意思を感じる。

サンローランの引退を前後に、ファッション界は巨大企業による買収が進み、様相が一変してしまう。
今後、才能あるデザイナーがもてはやされることはあっても、巨匠と呼ばれるに価する人はもう出ないだろうし、また、新たな神話が生まれることもないだろう、とも思う。


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