想元紳市ブログ

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リディア・デイヴィス『話の終わり』

リディア・デイヴィス著『話の終わり』は一風変わった視点で書かれている。

訳者の説明を、そのまま引用したい。

「ここには何人もの<私>が登場する。小説の中で実際に恋愛を体験している<私>と、それについて語っている<私>、その小説を書いている小説家の<私>、さらにはその枠組みのもう一つ外にいるはずの<私>、つまりはこの本の作者であるリディア・ディヴィス。読み手は幾重もの<私>の森の中に迷いこんで、いったいこれはフィクションなのかノンフィクションなのか、小説なのかエッセイなのか、自分がいったいどこに立ってこれを読んでいるのか、わからなくなってくる」

とはいえ、決して難解な小説ではない。

テーマは一言、「いなくなった男の話」である。

教師である<私>。
歳の離れた教え子との恋愛が破局し、1年たったあとも、ストーカーギリギリの行動と執着を続ける女の話だ。

男との思い出を、まるで飴玉を口の中でなめるように反芻し、ときに口から取り出して、様々な角度から眺め、また口に入れて少し噛んでみたり、といった行為を延々と繰り返す。
飴玉がついに溶けてなくなると、それでも飽き足らず、自らの肉や骨まで口に入れてしまわんばかりの執拗さで執着し続ける。

「私はひっきりなしにシャワーを浴びては体をこすった。垢だけでなく、皮膚や肉や骨までこそげて、体がなくなってしまえとばかりにこすった」

しかし、実は男の不在が、女をそんなふうに駆り立てているのではなく、男のことを書き記す行為自体に、つまり男の不在を哀しむ自分自身に、取り憑かれているにすぎないことに気づいてしまう。

「私はすでにこれを書くのにじゅうぶん苦労している。このうえ彼本人が介入してきたら、どうなってしまうかわからない」

やがて、この小説を書いている<私>は、どうやってこの小説を終わりにすればいいか、悩み始めるのだ。
結局、「話の終わり」から書き始めたこの小説の、冒頭に立ち戻ることになる。

「彼と別れてから振り返ってみると、あの始まりは、その後に連なる無数の幸福な瞬間の最初の一つだったというだけでなく、すでに終わりを内包していた」

素晴らしい小説だと思った。
一度ではなく何度も読んでみたい。


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『シングルマン』その2

昨年観た、トム・フォード初監督作品『シングルマン』をDVDで観直した。

恋人ジムの事故死から8ヵ月。
この8ヵ月は大学教授のジョージにとって、水中で息もできず、もがき苦しんできたような日々。
ついに自らの命に終止符を打とうと決意した、ある一日の物語だ。

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大学での、最後の講義は「恐怖」について。

「老いや孤独の恐怖、話しかけても通じない恐怖」

それはまさしく、今、ジョージの直面している恐怖である。

講義に共感した一人の学生ケニーがジョージに近づき、後をついて回る。
ケニーは、まるで神が遣わした天使のような存在だというと、ロマンチック過ぎるだろうか。

ジョージがケニーに諭す。

「人生が価値を得るのは、他者と真の関係を築けたときだけだ」

一日の終わり、ジョージが現実と生に目覚めるのは、ケニーとの束の間のふれあいの中に、そのささやかな萌芽を見るからである。

行きずりの短い会話を交わす、スペイン人の青年が語る母の教えがいい。

「恋人はバスと同じ。待っていれば次が来る」

コリン・ファースは『英国王のスピーチ』で頂点を極めたが、自分は、本作や『ブリジッド・ジョーンズの日記』の彼のほうがずっと好きである。

 

『カズオ・イシグロをさがして』

イギリス在住の作家カズオ・イシグロを追ったドキュメンタリー『カズオ・イシグロをさがして』を観た。

ほとんどメディアに登場しない作家の単独インタビュー、そして、代表作の秘密を紐解くことで作家の本質に迫る。

イシグロは、5歳のとき、長崎から家族と共にイギリスに移住した。
既に帰化し、もう日本語は全く話せないという。
発表した6冊の長編小説は、全世界40ヶ国で発売され、今や現代英米文学を代表する作家の一人だ。

残念ながら、自分はまだ1冊も読んだことはない。
映画化された『日の名残り』を観ただけだ。

初めて彼の話す姿を見たが、知的な容姿と静かな語り口、発せられる言葉の数々に、魅了されてしまった。

若いときはずいぶん様々な仕事を経験したという。
とりわけ、20代のとき、ホームレスの福祉施設で働いたことからは、極めて重要なことを学んだ。

「私は、追い詰められた人間というものにある種の敬意を持つようになった。人間が全てを失ったとき、いかに自分を鼓舞するか、いかに尊厳を保ちうるのか、その方法を学んだ」

小説の一貫したテーマは「記憶」。

「記憶は、死に対する部分的な勝利。大切な人を死によって失っても、彼らの記憶を持ち続けることができる。それは誰にも奪うことのできないもの」

もう一つが「大人になること」。

「大人になることは、自分の至らぬ点を認め、自身を赦すことだ。現実の人生は困難だが、それでも折り合いをつけることを学ぶべきである。自分自身に完璧を求めてはいけない」

現在、2作目の映画化作品『わたしを離さないで』が公開中である。

 

中野翠『小津ごのみ』

自他共に認める小津安二郎フリークである中野翠が、小津をテーマに綴った雑誌連載エッセイを一冊にまとめたものだ。
ファッション、インテリア、出演した俳優や役柄について。
また巻末には、中野による、今観られる小津映画全37本の簡単な解説が付いていて、小津ファンなら読み応え十分。

タイトル『小津ごのみ』については、次のように説明する。

「この言葉しか思い浮かばなかった。カメラワークにしろ、セリフにしろ、衣装・小道具・大道具にしろ、小津監督ほど自分の好みに確信を持ち、それを作品の中で貫き通した人というのは、めったにいないと思う」

そして、自身が傾倒する表現者として森茉莉と小津を挙げ、二人とも「自分の好き嫌いを最大唯一のよりどころにできた人」だと指摘する。

自分にとっては、中野翠もまさにそんなライターである。

映画評論家の書く映画批評には、正直、閉口してしまうことも多いのだが、彼女の書くものは一味違う。

基準を自分の好き嫌いに置きながら、「私はこう思う」とあくまでも個人的な考えであることを前提にした文章の、さりげない謙虚さが好きである。

例えば、『東京物語』における原節子の有名な台詞「わたくし、ずるいんです」についても、「いつ奔馬のように走り出すかもしれない欲望の手綱を辛くも押さえている」と分析する某有名評論家に対し、彼女はこう書く。

「私はビックリ仰天した。そんなこと思いつきもしなかった。いい感じはしなかった。私があの場面から受けた印象はまったく違うものだったから」

ちなみに、笠智衆のTVの仕事でのナンバーワンは『ながらえば』だという中野。
自分も全く同感である。


『東京物語』

小津安二郎監督、不朽の名作『東京物語』のデジタル・リマスター版を観た。

歳をとるごとに、回数を重ねるごとに味わいが増すのは、まさに本作が古典たる所以である。

描かれるのは、戦後日本における、旧き家族観の喪失と新しい価値観の芽生え。

これといってたいした事件も起こらない、ありふれた日常を淡々と捉えた作品にもかかわらず、だからこそ、単純な喜怒哀楽の言葉で表現できない深い味わいがある。

尾道に住む老夫婦が、子供たちに会うために上京する。
開業医をしている長男と美容院を営む長女の、冷淡で薄情とも思える接し方に対し、戦死した次男の嫁の優しさが心を打つ。

老夫婦を演じたのが笠智衆と東山千栄子、嫁が原節子、長男が山村聡、長女が杉村春子。

独特のカメラ・アングル、小津のデザインに対する傾倒など含め、既に語り尽くされたこの映画だが、改めて再見した印象を述べると、ひとえに「受容」というものの持つ美しさ、強さである。

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現実に逆らわず、あるがままを受け入れ、自分の中でやり過ごす。
その精神性を見事に体現するのがこの老夫婦だ。

子供たちの態度や生活ぶりに、内心がっかりしながらも、文句一つ言うわけではなく、自分たちはやっぱり幸せだと、穏やかに微笑む二人。

現に、子供たちは、激しく変化する東京での生活を必死に生きているだけであって、彼らに悪意はない。
むしろ観客は、反感を覚えながらも、自らの内にも同じものが巣くっていることに気づくだろう。

旧き老夫婦と、新しい世代の子供たちとの、間に位置するのが、血のつながっていない嫁である。

「わたくし、ずるいんです」と告白する有名な場面では、変わりゆく価値観や時代の中で、苦悩しながら両方に揺れ動き、橋渡しの役目を担う一人の人間の姿が見える。

最後、妻に先立たれた笠が隣人につぶやく。

「一人になると急に日が長ごうなりますわい」

これからの一人の長い時間も、しっかり受け止めて生きていくのであろう、その強さが、逆に胸に痛い。