想元紳市ブログ

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『ファン・ジニ』

以前ハマった韓国ドラマ『ファン・ジニ』を久しぶりに観直した。

李氏朝鮮中宗期に実在したという、朝鮮一と言われた妓生(芸妓)の半生。

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今回、強く心に響いたのは、主人公ジニの激しい愛の物語より、脇役であるオムスという名の中年楽士の愛である。

宮廷一の優れた楽士でありながら、ヒョングムという名の一人の女性を愛したがためにそれを捨て、彼女が暮らす地方の教坊で、楽器を弾きながら20年以上も寄り沿い続けた男。

ヒョングムは盲目で、別の男を心に住まわせている。
しかし、全てを受け入れ、愛する気持ちも胸の奥深くに隠し、ただ静かに、傍で見守るのがオムスの愛の形だ。

ある日、ジニがオムスに尋ねる。

「オムスさまの信じる愛とは何ですか?」

すると、オムスが答える。

「緩やかな調べだ。早い調子で軽やかに進むのではなく、ゆったりとして物悲しくも聞こえるが、情緒に溢れる、そんな調べだ。誰もが先を急ぐ世の中だが、ゆったりと流れる愛が、一つぐらいあってもよいだろう」

死期を悟ったヒョングムは、オムスに自分のために楽器を奏でてくれるように頼む。
それを聞きながら、ぽつりとつぶやく。

「良い音色ですね。一生心に刻んでおきたい尊い音です」

この一言で、オムスは自分の人生が、間違っていなかったことを確信したに違いない。
そして、ヒョングムの死と共に、オムスは、一人教坊を旅立つのである。

 
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ミランダ・ジュライ『いちばんここに似合う人』

”NO ONE BELONGS HERE MORE THAN YOU.” 
『いちばんここに似合う人』

美しいタイトルと、著者ミランダ・ジュライが、カンヌで受賞歴もある若手女性映画監督であるということに興味を持ち、本書を手にとった。

些細な日常、それでいてどこか奇妙な人と人の交わりを、まるで日記に綴るように切り取った16の短編。
解説にあるように、根底に流れているのは「孤独で不器用な魂」。
その孤独とは、人の存在そのものの孤独だ。

誰かと一緒にいても癒されず、結局は、孤独と向き合うしかないと、気づくこと。
人生とは、もともと壊れたものだという哀しみ。

しかし、喜怒哀楽の感情表現は、むしろ静かなほどで、どこまでも渇いた文章が続く。

短編『モン・プレジール』の中に、次の一節を見つけた。

「これをやっていると、いつも悲しい、渇いた気分になる。でもその二つはあべこべだ。ほんらい悲しみがもつべき深みと陰影を、渇きのほうがもっている。痛みのような、叫びのような、すすり泣きのような渇き。それにひきかえ悲しみは渇きの付け足しのようにちっぽけで、感情とも呼べないほどささやかで、苦悶の表情にしっかりくくりつけられていて、すぐに消えてしまう」

好きな短編は『共同パティオ』『マジェスティ』『階段の男』『十の本当のこと』など。

アパートのパティオで、隣に住む夫婦との束の間の触れあいを描いたのが『共同パティオ』。

「あなたは悪くない。もしかしたらそれは、わたしがずっと誰かに言ってあげたかった、そして誰かに言ってほしかった、たった一つの言葉なのかもしれなかった」

読み進めていくうちに、まさにこれは自分自身の物語なのだと、読者は気づくかもしれない。


『冷たい熱帯魚』

複数の知人から、絶対観るべきとすすめられつつ、なぜか皆、好きとも嫌いとも、良いとも悪いとも言わない理由は、観るとよくわかる。

世界的な評価も高い、鬼才・園子温監督の最新作が描いたのは、暴力、愛、死、狂気、エロチシズム……。
どんな言葉を並べようと、この映画を一言で説明することは不可能である。
有無を言わせぬ、圧倒的なパワーに、ただ打ちのめされて映画館を出るだけだ。

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田舎町で、小さな熱帯魚店を営む、気弱で無口な男。
後妻、死んだ先妻との間の娘の三人で暮らす家庭は、ほとんど崩壊寸前である。
些細なことから、同業者のある夫婦と出会ったことが、彼を壮絶な破滅の道に導いていく。

監督の実体験と、実際に起きたいくつかの猟奇殺人事件からインスパイアされたものだという。

日本のTVや映画を支配する、生ぬるいヒューマニズムや愛、軽薄な笑い、作りものめいた恐怖、表向きの優しさや希望など、それら全てを、完璧に破壊して、嘲笑うかのよう。
口当たりのいい世界にどっぷり浸かった我々に、監督は血みどろの挑戦状をたたきつけるのだ。

映画制作のお決まりの方法論や、予定調和な展開は一切ない。
観る者が、簡単に理解し、たやすく感想を述べることすら拒否するような、とてつもないエネルギーに満ちているのである。

夥しい血や肉が画面にあふれるので、その手のものが苦手な人は、相当つらいかもしれない。

役者陣の演技は全員、圧巻。
とりわけ、それぞれの妻を演じた、ほぼ無名の女優陣の演技は強烈だ。

この映画は、観るというより、体験すると表現した方が正しいかもしれない。

 

佐藤泰志『海炭市叙景』

1月に観た映画『海炭市叙景』の原作を読んだ。
作家、佐藤泰志の遺稿短編集である。

架空の街、海炭市に生きる市井の人々。
収めれているのは、2章各9編、合計18編である。
これが冬春編にあたり、あと夏秋編の2章合計36編で完成する予定だったという。
しかし、未完に終わった。
冬春編上梓の数ヶ月後、作家が41歳で自死したからである。

知人であった詩人の福間健二があとがきで次のように書いている。

「ただ進行を中断させたという『未完』とはちがっている。無意識のうちに作者は持続への不安を抱いていてそれぞれ一息で終わりまでもっていける物語を書きつらね、いつでも終われるような態勢でいたとも考えられる」

そう思うと、ひとつひとつの短編がずしりと堪える。

どの物語にも共通して流れているのが、「郷愁」である。
単純に場所ではなく、過去の自分、過去のある時間、失われてしまったものに対する思いだ。

合わせて、彼らはみな、生の意識が希薄に思える。
未来に対する希望や、今を生きる力を感じとることができない。

例えば、上京を夢見て、空港のレストランでバイトする18歳の少女。
しかし、この短編『昴った夜』はこう結ばれる。

「首都へ行く、ともう一度、思ってみる。でも、たったこの今、それは何年も、何十年も先のことのような気がしてならない」

印象的な冒頭の短編『まだ若い廃墟』。

貧困の中で寄り添って暮らしている兄妹。
二人とも炭鉱閉山で失業中である。
大みそかの夜、初日の出を見ようと、なけなしのお金を持って、二人は山の展望台に登る。
行きはロープウェイで、帰りは、妹だけに切符を渡し、自分は歩いて下山するという兄。
麓の売店前のベンチで、下りてこない兄を、妹は6時間待ち続ける。

「深い雪の中で力つきる兄の姿がはっきりと眼に浮かぶ。わたしは売店のウィンドゥの隣りにある電話に近づいた。大勢の捜索隊。警察の様々な質問。なぜ、山へ登ったのか。なぜふたりとも失業をしていたのか。なぜ、こんなにも長い間待ったのか。もっと多くの質問。わたしは答える。わかりません。受話器を取る。わからないのです、とわたしは答える」

それは、佐藤自身がなぜ妻子を残して死を選んだのか、誰にも「わからない」のと同じである。


『冷たい雨に撃て、約束の銃弾を』

香港・フランス合作のハードボイルド・ムービー『冷たい雨に撃て、約束の銃弾を』。

原題は単純に「復讐」。
思い切った気障な邦題にも、決して引けをとらないだけの、濃密な味わいを堪能した。
香港映画伝統のストレートなギャング映画に、フランスらしい大人の成熟がうまい具合にブレンドされて、一つの世界を作ったと自分は思う。

舞台はマカオと香港。
夫と子供を殺され、自らも瀕死の重傷を負った娘のために、父親が復讐を誓う。
そのために雇ったのが、3人の殺し屋。

しかし、この父親の行動はどこかおかしい。
実は、彼も、かつては腕利きの殺し屋だったが、頭に受けた銃弾が原因で、記憶を長く留めておくことができないのだ。
そして、まもなく、全ての記憶をなくしてしまうこと。
彼は、次第に、自分は誰を殺そうとしているのか、誰と手を組んでいるのかすらわからなくなっていく。

なんと言っても、映像のスタイリッシュさ。
月夜の森、どしゃぶりの夜の香港の街、強風の舞う草原など、思わず酔いしれてしまいたいほどの美しさである。

そこにあるのは、形だけでなく、本物のスタイルだ。

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父親を演じたジョニー・アリディは本国フランスでは大スターらしいが、元々、アラン・ドロンを想定して書かれた脚本だったらしい。

キャッチコピー「記憶を失くした男に復讐の意味はあるのか」は、映画の中で実際にある台詞の一つである。

そして、その台詞のあとには、こう続く。

「彼は忘れても、俺は約束した」

1人のフランス人と3人の中国人の絆は、ハードボイルドの定石、男の美学そのものである。