想元紳市ブログ

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『チャイナタウン』

ハードボイルド映画の傑作『チャイナタウン』。

初めて観たのは確か高校生の頃だ。
今回改めて観直した結果、まぎれもない名作だという思いを新たにした。

主演はジャック・ニコルソンとフェイ・ダナウェイ。
監督がロマン・ポランスキー、プロデューサーが『くたばれ、ハリウッド』で知られるロバート・エヴァンス。
ジェリー・ゴールドスミスの音楽が、物悲しさと退廃感を盛り上げる。

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舞台は1930年代のロス。
私立探偵ギテスは、一人の女から夫の浮気調査を依頼される。
やがて、水源電力局の部長だった夫は殺害され、その後、本物の妻イヴリンも登場し、いよいよ事件はダム建設をめぐる巨大な陰謀につながっていく。
そして、事件の裏で次第に明らかになる、イヴリンをめぐる愛憎の秘密。

チャイナタウンとは、かつてギテスが刑事だった頃に管轄した場所であり、混沌と特異性を象徴する。
ギテスの言葉を借りるならば、「ほんの先のことすら読めない街」。

まさしく、この映画のテーマそのものである。

ギテスのキャラクターは、最初からジャック・ニコルソンを想定して書かれたのだという。
映画でははっきり描かれていない、おそらく女に関係した深い心の痛手が、さりげなく垣間見える陰の部分がいい。

イヴリンを演じたフェイ・ダナウェイのミステリアスな美しさも必見。
眉を剃って上に細く描き、唇の輪郭を弓型にくっきりなぞる独特のメイクのため、カット毎に直しが必要だったという。

真実を聞きだそうと、ギテスがイヴリンを連続で平手打ちする場面は、痛々しいばかりか、心にも強く残る名シーンだ。

イヴリンは、物語の中ではただ一人、純粋で無欲な存在。
しかし、それゆえに、悲劇が彼女を襲う。
夜のチャイナタウンでそれが起こり、映画は終わる。

虚無感とどうしようもないやるせなさが、いつまでも拭えず続く。

 
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『駅路』

松本清張原作、向田邦子脚本のドラマ『駅路』の再放送を観た。

銀行を定年退職した男が、突然、失踪する。
一人の男が人生の終着点を迎えて、何を考えたのか。
残された妻、男を追う謎の女、定年間近の刑事ら、それぞれの人生が交差する。

モチーフになるのがゴーギャンの絵だ。

原作にもドラマにもあるこの一節が、重要なテーマである。

「人間というものは子供の犠牲になるものだ。その子供たちはまた自分の子供の犠牲になる。この馬鹿げたことは永遠につづくらしい。もし、すべての人間が子供の犠牲になるとしたら、一体、誰が芸術や美しい人生を創造するのか」

2009年のリメイクで、出演は役所広司、深津絵里、十朱幸代。

オリジナルは、1977年に『最後の自画像』という異なるタイトルで放送されている。
それ以外にも、向田の脚本でないものが2作、存在しているらしい。

向田は、原作物の脚色は好まなかったが、この作品だけはなぜかすんなり引き受けたという。
男の人物像が父親に似ていたという点。
そして、もう一つの理由――。
主人公の男の趣味がカメラ、彼が撮影した愛人の写真、というと、向田ファンならすぐにピンとくるだろう。
→『没後20年 向田邦子が秘めたもの

向田は、自身の心の葛藤をドラマに織り込んだのだ。

原作と脚本の両方を収録した本が出版されており、並べて読むと、向田がかなり大胆に脚色したことがわかる。
松本清張は、向田の脚本を読み、思わずニヤリと笑ったとか。

1977年版の女優陣はいしだあゆみと加藤治子で演出は和田勉、つまり向田作品黄金の組み合わせ。
となると、どうして観たくなってくる。


『めぐりあう時間たち』

違う時代を生きる3人の女の特別な1日が、時間を超えて見事に交差していく。

1923年英国、『ダロウェイ夫人』を執筆しているヴァージニア・ウルフ。
1951年LA、『ダロウェイ夫人』を読んでいる主婦、ローラ・ブラウン。
2001年NY、『ダロウェイ夫人』と呼ばれ、彼女さながらの一日を送るクラリッサ・ボーン。

そして物語は予想もしない結末へ。

なんといっても、ピューリッツァー賞を受賞した原作そのものが実に秀逸だ。
映画は原作にほぼ忠実に作られている。

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冒頭のタイトルクレジットで、3人それぞれの素描があり、ウルフがペンを持ち、小説の書きだしを思いつくシーンへと続く。

『ダロウェイ夫人は言った。花は私が買いに行くわ』

ローラが、ベッドの上でその一節を朗読する。
続いて、クラリッサが、恋人のサリーに声をかける。
「花は私が買いに行くわ」――。

幕開けのシーンだけで、これから始まる物語にワクワクするような興奮を覚えるはずだ。

重層な物語のテーマを一言で語るのは難しい。
至るところに伏線やなんらかの意味が組み込まれており、おそらく細部まで理解するためには、小説『ダロウェイ夫人』に立ち戻らねばならないだろう。

映画の最後に朗読される、ウルフの遺書の中に、大事なヒントがあるかもしれない。

「いつも人生を見つめ
ありのままを知り
ありのままを愛する
最後に愛を知り
そして捨てる」

三つの物語を紐解くキーワードのひとつは「同性愛」である。

実際、ウルフには、同性愛関係にあった女性がいたというのが通説で、ローラは隣人のキティに秘めた思いを寄せている。クラリッサに至っては、女性と10年同棲し、すでに倦怠すら芽生えつつある関係にある。
エイズを患う、詩人でゲイのリチャードは、物語の鍵を握る存在だ。

原作のマイケル・カニンガム、映画の監督スティーブン・ダルドリーもゲイである。

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『明日の私に着がえたら』

B級だとわかっていても、どうしても観てしまう映画がある。

『明日の私に着がえたら』は、言ってみれば『セックス・アンド・ザ・シティ』と『プラダを着た悪魔』の合体版だ。
原田知世の出てきそうなタイトルからして、安っぽさの極致である。

なんといっても、キャストが豪華。
主人公の女友達4人のうちの二人がメグ・ライアンとアネット・ベニング。
脇にベット・ミドラー、エヴァ・メンデス、キャンディス・バーゲン、キャリー・フィッシャー。

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女の本音と毒に溢れる台詞の連発。
たとえ駄作だろうと、ゲイはこういう女だらけの映画が大好きだ。

メグ・ライアンの仕事はファッションデザイナー。ネイリストの噂話から夫の浮気が発覚する。
アネット・ベニングは一流雑誌の編集長で、恋より仕事を優先してきた女である。
あとの二人は、スーパーモデルとつきあっているレズの作家、そして子だくさんの主婦。

テンポの早い、前半は特に楽しい。

メグ・ライアンがデザインしたという設定のファッションショーが素敵だと思ったら、ナルシソ・ロドリゲスのものらしい。

この映画のもうひとりの主役が、サックス・フィフス。
たくさんのブランドや有名人の名前が登場する、いかにもマンハッタンらしい空気感が楽しい。

原題は”The Women”
その通り、女性しか出てこない。

たった一人の男、それは思ってもみない形で、エンディングに登場することになる。

 

ジェームズ・ボールドウィン『ジョヴァンニの部屋』

ジェームズ・ボールドウィン著『ジョヴァンニの部屋』を、自分は何度読み返しただろう。

サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』が少年の、シルヴィア・プラスの『ベル・ジャー』が少女の必読書であるならば、この小説はまさにゲイの必読書だ。

アメリカ人青年デイヴィッドは、パリでイタリア人ウェイターのジョヴァンニと恋に落ち、出会った日からアパートで同棲を始める。
しかし、数ヶ月後、婚約者のヘラが旅先からパリに戻ったことから、デイヴィッドはジョバンニをあっさり捨てる。
絶望のジョヴァンニは、退廃の中で悲劇に身を落としていく。

まるで詩のような美しい文章で、デイヴィッドの心の闇が綴られる。

事実に気づいた婚約者のヘラもアメリカへと去り、一人屋敷に残されたところから回想が始まる。

「ぼくはいま、ここ南フランスの宏荘な屋敷の、窓にむかって立っている。夜のとばりがしずかにおりはじめているが、この夜こそは、ぼくの生涯で、もっとも恐ろしい朝へとつながっていく夜なのだ」

「恐ろしい朝」とは、ジョヴァンニが死刑執行される朝である。

ゲイであることを、己の中でいまだ認められない時期の心の葛藤と、それゆえの残酷な行動。

「たぶんだれでもそうであるように、ぼくもずっと若いころには、自殺を考えたこともあった。しかしそれは、復讐のためであった。世界がぼくをどんなにひどく苦しめているかということを、なんとか世間に知らせてやろうとして考えついたことだった。(中略)ぼくが死者のことを考えたのは、かれらの生涯はすでに終わっているのに、ぼくにはまだ自分が自分の生涯をどのようにして全うしたらいいのかわからなかったからだ」

そして、デイヴィッドはこう思うに至る。

「いまにして思えば、ぼくが発見しようと望んでいた自己が、けっきょくは、あんなにも多くの時間をかけて逃避していたのと同じ自己にすぎないのだ……」

本当の絶望を知ったのは、ジョヴァンニではなく、デイヴィッドではなかったか、と思える。

1956年の小説で、ジェームズ・ボールドウィンは黒人作家である。