想元紳市ブログ

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『Flowers』

資生堂が特別協賛したこの映画、TVCF、商品のパッケージやPOPにと、大変な露出である。
間違いなく、資生堂が新しいTSUBAKIの宣伝手法として製作したものだろう。

ただ、映画の中身そのものに企業宣伝臭はなく、一貫して美しさに拘った作り手の姿勢に好感が持てた。

テーマは日本女性の美しさ、そして、日本の四季の美しさ。

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蒼井優、鈴木京香、竹内結子、田中麗奈、仲間由紀恵、広末涼子。
現在の日本を代表する6人の若手から中堅女優の競演する、祖母・母・娘、家族三世代の物語である。

それぞれの時代背景が品よく再現される上、さすが女優たちが最も美しく見えるよう計算され、撮影されている。
祖母の時代の映像は小津安二郎風、母の時代は若大将や裕次郎の映画風だ。

各エピソードは短く、ぶつ切りで、1本の完結した映画としてみると、確かに物足りなさは拭えない。
だが、洗練された映像としての完成度は、資生堂のクリエイティブ力の高さと無関係ではないだろう。

頭の軽そうな若者が、やたら大騒ぎする子供映画ばかりの昨今、「美しさ」に細部までこだわった映画というのも、たまには悪くない。

ドリカムのテーマ曲もよかった。


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『ラストエンペラーの妻 婉容』

NHKのドキュメンタリー・シリーズ『華麗なる宮廷の妃たち』が好きで、昨シーズンから欠かさず観ている。

今回は、『ラストエンペラーの妻 婉容』。

清王朝最後の皇帝溥儀に16歳で嫁いだ婉容。
満州国皇后となるも、その崩壊とともに溥儀からも捨てられ、中国共産党軍に捕らえられたのち、アヘン中毒と孤独のうちに40歳で亡くなった。

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ベルトリッチの映画『ラストエンペラー』ではジョアン・チェンが熱演し、その悲劇的半生はよく覚えているが、この番組を見ると、映画ではまだ随分美化されていたことがわかる。

劇中、アヘン中毒になった婉容が公邸を追われる際、日本軍人に向かって唾を吐いて回るシーンが忘れられない。
車で運び出される彼女を、2階の溥儀がそっと見つめる様子からは、夫婦のせつない愛が溢れていたと記憶しているが、現実の二人の関係は完璧に終わっていたらしい。

溥儀が同性愛者だったというのは通説で、そのため、新婚当初から、満たされない夫婦生活を送っていた婉容。

皇后になってから、愛人を持ち、妊娠し、しかし、すぐに子供をなくしていたのではないかという説もある。
アヘンの量が増えたのもそのせいだったなど、所説があり、今も真偽はよくわかっていない。

今回興味深かったのは、ゲストの中村うさぎのコメントだ。
自らゲイと結婚している彼女が、婉容の気持ちを推測して語る言葉には説得力があった。

「たとえ一瞬でも、真に愛する人ができてその人の子供を身ごもったという事実があれば、この人の人生は救われたのではないか、と思ってあげたい」

元本は、番組のゲストでもあった入江曜子著『我が名はエリザベス』である。


『ドリームガールズ』

ゲイの大好きな『ドリームガールズ』。
DVDもCDも持っていたはずが、どういうわけか今両方とも手元にない。

先日の、渋谷のオーチャードホールでのブロードウェイ公演は見逃した。
友人によると、きらびやかで素晴らしいショーだったようだ。
もちろん、観客はゲイだらけだったらしい。

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華やかなショービジネスの世界を舞台にしつつ、描かれるのは別れと再生の物語である。

仲間と別れ、愛する人と別れ、そして過去の自分にも決別し、再出発すること。

主人公ディーナを演じたビヨンセの眩しいばかりの美しさ。
明らかに、ジェニファー・ハドソン演じるエフィに注目が集まってしまうストーリー。
しかし、ディーナという役、今、ビヨンセ以外に誰が演じることができただろう。

たとえ劇中だったとしても、夫のカーティスに「君をリードボーカルに選んだのは、声に個性も深みもないからだ」とまで言わせてしまうのである。

以前、メアリー・J・ブライジが、「ビヨンセは下手とかうまいじゃなくて、歌にソウルがない」と評していたことを思い出す。

終盤、ディーナが、自らの再生の象徴として歌う歌のタイトルが"Listen"というのは、実によく出来たアンサーソングだ。
この映画のオリジナルで、まさにビヨンセのために書かれた曲である。

自分には、ビヨンセとディーナが、何やら重なって見えてしまう。

エフィの歌う”And I Am Telling You I'm Not Going”は、物語のひとつのクライマックスだが、自分の世代だと、なんといってもジェニファー・ホリディである。

ジェイミー・フォックス演じるカーティスには、人間としての短所ばかりが目につく。
しかしそんな彼にも、とうとう最後には、ささやかな再生の兆しが見え、映画は終わるのである。

 

田辺聖子『ジョゼと虎と魚たち』

田辺聖子の小説の中でも『ジョゼと虎と魚たち』は、格別好きな短編のひとつだ。

車椅子の少女・ジョゼと、大学を出たばかりの青年・恒夫のせつない恋の物語。
ほんの20ページあまりの短編に、恋のエッセンスが、見事に凝縮されている。

最近、映画化された脚本を読み、改めて原作を手にした。

脚本では、恒夫の人物像に厚みをもたせ、舞台も現代に置きかえられている。

また小説が恋愛真っ最中の陶酔の極みで終わってしまうのに対し、映画では、二人のその後がわずかに描かれる。
さりげなく暗示するに留め、読者の想像に委ねられたその後が、リアルに語られてしまうのは、なんだか残念だ。

ラストの一節。

「恒夫はいつジョゼから去るか分からないが、傍にいる限りは幸福で、それでいいとジョゼは思う。そしてジョゼは幸福を考えるとき、それは死と同義語に思える。完全無欠な幸福は死そのものだった」

読後のせつない余韻は、小説ならではの味わいだ。

映画は、たぶん数年前に観たはずなのだが、正直あまり記憶にない。
ただ、妻夫木聡と池脇千鶴のキャスティングは原作のイメージを裏切っていない。

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江藤淳『妻と私』

本書の帯に書かれたキャッチコピーは、「愛とはかくも苛烈なのか」。

文芸評論家の故江藤淳が、末期癌で死にゆく妻を看取るまでを綴った手記である。

病室の、脇の簡易ベッドに横になりながら、妻の手を握り続ける夫。
その様子を綴った文章には胸が詰まるが、同時に、物を書く人間らしい静謐な思索に驚かされる。

「入院する前、家にいるときとは違って、このときの家内と私のあいだに流れているのは、日常的な時間ではなかった。それはいわば、生と死の時間とでもいうべきものであった。
日常的な時間のほうは、窓の外の遠くに見える首都高速道路を走る車の流れと一緒に流れている。しかし、生と死の時間のほうは、こうして家内のそばにいる限りは、果たして流れているのかどうかもよくわからない。それはあるいは、なみなみと湛えられて停滞しているのかもしれない。だが、家内と一緒にこの流れているのか停まっているのか定かではない時間のなかにいることが、何と甘美な経験であることか」

しかし、看護婦からラブラブですねと言われたことをきっかけに、江藤は考えを改める。
甘美なのは生と死の時間だからではなく、死の時間であり、妻が死に近づいている以上、自分も死に近づきつつあるのだということに。

妻の臨終後すぐに妻の指から翡翠の指輪を抜き取り、鞄にしのばせる。
その後、江藤自身が大病を患ってしまう。
やっと回復し、久しぶりに鞄の中を覗いて、見つけた指輪――。

「何だ、慶子、君はやっぱりここにいたじゃないか、ずっとぼくと一緒にいてくれたじゃないか、と言葉にならない言葉で指輪に語りかけると、涙が溢れ出てきた。私はほんの数分の間、その指輪を自分の結婚指輪の上に嵌めてみた」

哀切に満ちた手記の終わりだ。

妻の死後、なんとかこの手記を書きあげ、大学にも復職する。
ところが、半年後、江藤が選んだ道は、妻の後を追うことだった。

同様の回想記に、城山三郎の『そうか、もう君はいないのか』がある。
これを自分は一年ほど前に読んだ。
別れた恋人が、とても感動するからと薦めてくれた本だった。

 
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