想元紳市ブログ

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宮本輝『流転の海 第五部 花の回廊』

宮本輝の長編連作、『流転の海』の第五部『花の回廊』をやっと読んだ。

第一部が出版されたのが1982年だから、既に25年以上続いていることになる。
今のところ、第七部で完結の予定らしい。

終戦後の日本を舞台に、闇市からのし上がる松坂熊吾と妻の房江、熊吾50歳で授かった一人息子・伸二の物語だ。
3人は、幾多の波乱を乗り越えながら、たくましく、したたかに生きていく。

本作の魅力はなんといっても、圧倒的な熊吾の存在感にある。
広い肩幅、厚い胸板、野性的な魅力にあふれながら、繊細な弱さも併せ持つ熊吾に、男として惚れてしまう。
マッチョで男らしい言動は、性的アピールにも溢れている。

また、妻房江の魅力が、なんともゲイ心をそそるのだ。

例えば、こんなくだり。

息子の伸二が急病になり、やむなく働き先の飲み屋「お染」の女将に休ませてくれと電話すると、女将から嫌みを言われる。そこで、房江はこう思う。

「私の代わりは掃いて捨てるほどいるだと? お染の売り上げが増えた理由を知らないはずはあるまい。私がお染の客においしい料理を出すようになったからだ。(中略)私が勤める前と後との月々の売り上げを比較してみるがいい。盛りをとうに過ぎた女の自分を売り物にするなら、もう少しおつむを磨くことだ。まさか、自分の色気が客を呼んでいると思い違いをしているのではあるまいな。
 房江はタネの住まいに戻りながら、私が辞めたら店をやっていかれなくしてやろうと、いたずらを企む子供のように計略を練り始めた。私の料理で、あの垢抜けないバーを連日満席にしてから辞めてやると決めたのだ」

まるで、意地悪なママのいるゲイバーの気の強い店子のようだ。

タイトル『花の回廊』は、伸二がいっとき世話になる、在日韓国人の多く住む雑居ビルを象徴している。
ビルの名は「蘭月ビル」、そこに住む絶世の美少女が「咲子」である。

この小説は1990年に一度映画化されたが、見事に失敗した。
熊吾を森繁久彌が演じたと聞くだけで、小説の愛読者は違和感を覚えずにはいられないだろう。

 
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山口洋子『ザ・ラスト・ワルツ』

筆談ホステスが話題になり、テレビドラマにもなった。
しかし、銀座のホステスものでは、断然こちらがおすすめだ。

作詞家・作家の山口洋子著『ザ・ラスト・ワルツ』は、自身が銀座に持っていた有名クラブ「姫」を舞台に、当時の様々な人物の思い出を書き記したもの。
ドラマチックで壮絶なホステスたちの半生、顧客だった有名人たちの逸話、同性愛の男たち……。

その中に、次のようなエピソードがある。

「雨あがりのある夕刻、『お染』のママとばったり行き当たったことがある。(中略)お染さんはちらと私の顔を見ると、小腰を屈めるでもなく会釈をするでもなく、そのくせ充分なリアクションをこちらに伝えて、静かに通り過ぎていった。(中略)『エスポアール』のマダムにもパーティーで会ったことがある。新参者の私が敬意を表して先に一礼して顔をあげると、牡丹の花みたいな艶やかな嘲笑が、あなたの身分でよくこんな席に出てこられたわねという目配せになって、尊大に頷いていた」

こう表された、二人の有名マダムをモデルにしたのが、映画『夜の蝶』だ。

お染を演じたのが山本富士子、対する「エスポアール」のマダムを京マチコ。
祇園から銀座に進出した京女のお染に対して、「エスポアール」のママ、川辺るみ子は銀座らしい華やかな容姿の人。
当時、この2店は互いに敵対し、ホステスの奪い合いや男をめぐる争いなどは、熾烈なものがあったらしい。
そして、映画では、事実を大幅に誇張した激しい女の戦いが描かれる。

お染の半生については、石井妙子著のルポ『おそめー伝説の銀座マダムの数奇にして華麗な半生』に詳しい。

ちなみに、お染こと上羽秀の夫は映画プロデューサーの故俊藤浩滋。
彼の先妻との間にできた娘が女優の富司純子である。

  

田辺聖子『うたかた』

久しぶりに田辺聖子の短編が読みたくなり、手にした『うたかた』。

収録された5編は、処女作『虹』をはじめ、いずれも昭和30年代に書かれたものだというから驚く。
今読んでも、少しも古びていないばかりか、むしろみずみずしいほどだ。

表題作『うたかた』はチンピラの男の切ない恋。

「俺たちはさんざんペッティングした。ずいぶん疲れているのに、精神だけは、手でつかまえられないほどきらきらと高くとんでいくようで、どっちものぼせるほどうれしくて、おたがいが好きだというきもちだけでクスクスケラケラ笑い通しだった」

しかし、女は突然消える。
消えた女を、あっちこっち探して歩くが、やっと見つけた女は、まるで別人になっていた。
最後、男はこう思う。

「人間なんてうたかたみたいなもんだ。ただ、恋したときだけ、その思いが人間自身より、生きているようだ」

処女作の『虹』は足の悪い女の子の叶わぬ恋。

「人間の真実というものは虹に似ていた。虹である人生の真実の生命は一瞬のものだとは、いったい、だれが知り得よう? 人間が真実を抱いていても、それが相手に伝わり、はっしとひびくのは、ほんの一瞬で、しかも汐のみち干のようにそれはきまりのある時ではなく、いつ光りだすか、わからないのだ。虹のように光り虹のように消えてしまう。そして人はまたもや蒙昧の悲しい暗闇に沈み、ねむり、時をすごす」

なんとせつない文章だろう。

田辺聖子の小説には、こんな宝石のような言葉がいたるところに散りばめられている。

『マンハッタン』

1979年の傑作映画『マンハッタン』。

テレビ局の仕事から小説家に転身しようとしている、ウディ・アレン演じる中年男アイザックが主人公。
神経質で皮肉家のアイザックと個性的な3人の女が繰り出す人間模様がコメディータッチで描かれる。

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メリル・ストリープ演じる元妻ジルはレズビアンの恋人と同棲し、アイザックのことを曝露した自伝小説を発表しようとしている。
マリエル・ヘミングウェイ演じる、現在の恋人のトレイシーは、素直で純粋だがまだ高校生だ。

そんな中知り合った、典型的なNYのキャリア・ウーマン、メリー。
演じるのは、アレンの元パートナー、ダイアン・キートンだ
高慢な自信家で鼻もちならない上、親友の不倫相手でもある。
だが、アイザックは、トレイシーを裏切り、次第にメリーの大人の魅力に惹かれるようになってしまう。

濃淡の強いモノクロ映像、ガーシュインのラプソディー・イン・ブルーをBGMに撮影されたマンハッタンの風景は、文句なしに美しい。

またウディ・アレン独特の、饒舌で知的な台詞が冴えわたる。

「私はなんでも知っている」と自慢げなメリーに、アイザックが言う。

「頭で理解できることに価値はない。価値があるのは別の口から入ってくることだ」

それでも口ごたえするメリーをアイザックがたしなめる。

「君は頭脳に頼りすぎる。過大評価の器官だ」

物語のテーマは、アイザックが小説を執筆するためのメモとして記すこの言葉――。

「不必要な精神問題を次々に作り出すマンハッタンの人々、それは解決不能な宇宙の諸問題を逃れるため」

やがて、アイザックは、皮肉な人間関係に疲れ、トレイシーの尊い無垢さに気づく。
慌てて彼女の家に走るが、ちょうどヨーロッパ留学に旅立とうとしている。
留学から戻るまで待って欲しいというトレイシーが、アイザックは信用できない。

そしてこの映画は、トレイシーのこの台詞で終わる。

「変わらない人もいるわ。少しは人を信じなきゃ」

トレイシーに象徴されるささやかな希望が、マンハッタンの美しい夜明けと重なる。

 

『藍宇 〜情熱の嵐〜』その3

この映画の持つ魅力とはいったいなんだろう?
決してメジャーではない、10年近く前のゲイ映画だというのに、いまだに最低3日に1回は、キーワード検索でこのブログに辿り着かれる方がいらっしゃる。
確かに、この映画に一度はまると、ある種、魔物にとりつかれたような状態になる。

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久しぶりに観て、改めて気付いたのは、胡軍の、あえて台詞がないときの演技の味わいだ。

別れ話で「僕はこの家で待たないよ」と藍宇に言われたとき。
泣きながら荷物をまとめる藍宇を見つめる顔。
事務所に来た公安警察よりも、藍宇を心配する顔。
台所に立つ藍宇を見にやってきて、手持無沙汰に突っ立っているとき。

藍宇は、先回りしてあれこれ考え込んでしまうタイプである。捍東より大人だが、「愛してほしい」タイプだ。
一方、富裕層の子息である捍東は、どこか子供のように無邪気なところがあり、感情がすぐ表に出てしまう、「愛したい」タイプである。

例えば、藍宇の家で、酔っぱらってソファに寝込んでしまう捍東。
よりを戻したいとは言いだせず、ぐずぐず居座って、帰ろうとしなかったであろう捍東は、いじらしいほどに可愛く思えただろう。
留置場から出てきた捍東のお祝いパーティーで、子供のようにはしゃぐ捍東と、それを諌める藍宇。
捍東は、藍宇のようなタイプが、まさしく惹かれる男である。

スタンリー・クアン監督の、いかにもゲイ的な感性に溢れたシーンの数々。
繊細な演出には、様々な意味が込められていたことにも気づく。

大学構内で、立ち話する二人の間をやたら人が通る。微妙に離れた、二人の間の距離が強調される。
そのあと、捍東が近づいてマフラーをかけてあげるときの短いカット割りが、二人の心が寄り添っ瞬間を見事に表現するのだ。

別れ話のとき、二人の前にしっかりと存在感を持って置かれている赤ワインは、捍東の婚約者の存在を意味するものだろう。
のち、離婚した捍東は、もはやワインではなく、ビールをひたすら飲む男になっている。
最初の頃はウィスキーばかり。
捍東の飲む酒は、彼自身の変化を象徴している。

エンディングのブルーの景色が流れるシーン。
工事囲いのような青い障害物のため、その向うの景色はよく見えない。
青い障害物が途切れて、やっと向うの建物がはっきり見えたとき、この映画は終わる。

青いものは物事の表層、そして、その向うの景色は、奥底にある真実だと考えるとどうだろう。
真実がやっと掴めたとき、人生というものは終わってしまうのだ。